厭離庵
紅葉で知られる小倉百人一首ゆかりの尼寺
臨済宗天龍寺派。元は有名な「小倉百人一首」の撰者・藤原定家の小倉山荘だった場所。 江戸中期に令泉家が修復し寺院となり、霊元天皇が「欣求浄土 ・厭離穢土」から命名。 江戸城無血開城の立役者、山岡鉄舟の娘が住職となり尼寺に。 紅葉の時期のみ特別公開
- 基本データ
- 見どころ
- 施設案内
- カレンダー
- レポート
- 口コミ
厭離庵のみどころ (Point in Check)
京都市右京区嵯峨二尊院門前善光寺山町、清凉寺(嵯峨釈迦堂)の西門より二尊院に至る道の途中にある臨済宗天龍寺派の寺院。
山号は如意山で、本尊は上宮太子作の如意輪観世音像。
小倉山の麓に位置し、鎌倉初期の歌人・藤原定家が有名な「小倉百人一首」を編纂した山荘「時雨亭」の旧跡と伝えられる場所の一つで、西南の竹林・善光寺山がその場所にあたるといいます。
藤原定家(ふじわらのさだいえ/ていか 1162-1241)は鎌倉初期を代表する歌人で公家。
同じく歌人であった藤原俊成の次男として生まれ、俊成が和歌を批評する言葉として用いた神秘的で奥深い感動・情趣のある様を表す「幽玄」という概念を、定家がさらに深化させて「有心体(うしんたい)」の歌風を確立しました。有心体とは機知・滑稽を重んじる即興的な無心体(むしんたい)に対し、「心あり」というように歌に心が深くこもることをいいます。
後鳥羽院に認められて和歌所寄人となり「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」の2つの勅撰集の選出に携わったほか、勅撰集以外にも「定家八代抄」「小倉百人一首」「拾遺愚草」などを撰んでおり、中でもとりわけ有名なのが「小倉百人一首」です。
また歌論や古典研究の面にも大きな足跡を残しており、和歌十体を唱えた「毎月抄」などの歌論書も多く残したほか、印刷技術のなかった時代に「源氏物語」「土佐日記」「伊勢物語」「更級日記」など多くの古典を書写し、注釈を加えて後世に伝えました。定家が書き写したものは「定家本」と言われ、書写本の中核をなしたといいます。
更に18歳から74歳までの詳細な日記「明月記」は歴史書としても天文学の記録としても価値が高く、定家自筆原本の大部分は冷泉家時雨亭文庫に現存しており、重な資料として国宝に指定されています。
「小倉百人一首」は、息子の妻の父親で御家人でもあり歌人でもあった宇都宮頼綱(蓮生)が嵯峨野に建築した別荘「小倉山荘」のふすまに装飾として貼る色紙の作成を依頼されて選んだもので、嵯峨の山荘「時雨亭」で撰んだといいます。
この点「時雨亭跡」のあった場所ははっきり確定しておらず、厭離庵のほか、二尊院や常寂光寺にも時雨亭跡とされる史跡が残っています。
飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、総勢100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたため、作成当時は一定の呼び名はなかったものの、後に定家が小倉山で編纂したという由来から「小倉百人一首」という通称が定着したといいます。
そしてその後「歌がるた」として広く用いられたことから「百人一首」といえば「小倉百人一首」を指すほどに有名になりました。
「時雨亭」があったとされる場所はその後荒廃し、江戸初期には定家・為家塚が残るのみとなっていましたが、江戸中期の1736年(元文元年)頃に定家の子孫である公家の冷泉家(れいぜいけ)がわずかに残っていた土台石をもとに修復。
そして霊元法皇(在位1663-87)より「厭離庵」の寺号と如意山の山号をを賜わり、白隠禅師の弟子の霊源慧桃(れいげんえとう)が開山したのが当寺のはじまりです。
当初は真言宗大覚寺派に属していましたが、1772(安永元)年には臨済宗天龍寺派となりました。
明治維新後に再び荒廃しましたが、1910年(明治43年)に貴族院議員で白木屋社長の大村彦太郎が復興。
仏堂と庫裏を建立し、勝海舟や高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれた政治家・山岡鉄舟の娘である素心尼が住職となり、以後は尼寺となります。
現在は尼僧のなり手がいなくなり、天龍寺から依頼のあった男性住職が住するようになっているようです。
現存の本堂は1950年(昭和25年)のジェーン台風で倒壊し、1953年(昭和28年)に再建されたもの。
また瓦ぶきの茶席「時雨亭」は6世・常覚尼が定家の山荘再興の意を踏まえて、1923(大正12)年に建てたものです。
この他にも定家が筆洗いに使ったと伝わる「柳の水(硯の水)」や定家塚、定家の嗣子である為家の墓などが残されています。
境内は新緑や紅葉が美しいことで知られ、歌作りの風趣が漂う静かな山内は通常非公開ですが、毎年木々が真っ赤に色づき幻想的な光景が広がる秋の紅葉シーズンのみ一般公開されています。
晩秋には真っ赤な楓の落ち紅葉が、まるで絨毯を敷き詰めたかのように苔むす庭園を埋め尽くします。
厭離庵の施設案内
境内
-
-
入口と小倉山荘旧址厭離庵の石標
-
-
-
参道
-
-
-
竹林の参道
-
-
-
山門
-
-
-
石畳の参道
待合へ続く
-
-
-
萱門(待合)
茅葺の屋根が印象的
門をくぐると時雨亭へ
-
-
-
柳の水(柳の井)
待合から時雨亭へ向かう参道途中
-
-
-
時雨亭
書院の東隣
-
-
-
石段
萱門の左横から書院・本堂へ
-
-
-
分岐
右は書院へ左は本堂へ続く小門
-
-
-
書院(客殿)
-
-
-
南庭
書院の西側 散り紅葉が美しい
-
-
-
灯籠とつくばい
書院前
-
-
-
門
書院西にある小さな門
-
-
-
歌碑?
門くぐってすぐ左
-
-
-
本堂への参道
-
-
-
石塔群
-
-
-
井戸
-
-
-
定家卿御塚
-
-
-
石段
-
-
-
本堂(仏堂)
ジェーン台風(1950年)で倒壊し、現在見る建物は、昭和28年(1953)に再建されたもの
堂内には本尊・如意輪観音像のほか、開山・霊源禅師、宗祇や芭蕉らに多大な影響を与えた歌人・西行法師、「古今和歌集」の撰者で三十六歌仙の一人である紀貫之、更に藤原定家とその子の為家、孫の冷泉為相(ためすけ)の位牌などが安置されている 天井には仏師・西村公朝(にしむらこうちょう 1915-2003)の筆による「飛天」の文字が描かれている
-
関連
-
-
藤原為家の墓
山門をくぐらず右の路地を進んでいくと小さな公園があり、その片隅にある
-
-
-
相国寺
藤原定家の墓がある
-
周辺
厭離庵の主な年間行事・カレンダー
年中行事
- 11月上~12月上
特別公開
花ごよみ
厭離庵のレポート・旅行記
表示する記事はありません