「嵐山通船」は、京都を代表する観光名所の一つである嵐山のシンボル「渡月橋」の架かる桂川の上流部分である大堰川を遊覧し、風光明媚な景色を船上から楽しめる屋形船を運営している会社。
社紋は鵜飼でおなじみの鵜、公式ゆるキャラは船頭の「通(つう)さん」。
平安時代から絶好の景勝地として親しまれてきた嵐山。
そのシンボル的存在として親しまれている桂川(大堰川)に架かる「渡月橋」は、平安初期の承和年間(834~848年頃)(836年(承和3年)とも)、弘法大師空海の弟子にあたり法輪寺を中興した僧・道昌(どうしょう 798-875)が大堰川を修築した際に架橋したと伝わっています。
道昌は東大寺で受戒の後、神護寺や東寺で弘法大師空海に真言密教を学んだ人物で、秦氏の創立した広隆寺に入り復興させるとともに同じく秦氏の建設した桂川(大堰川)の堤防・葛野大堰をを改築・修復、更には大堰近くに創立された葛井寺を整備して法輪寺として中興するなどし行基の再来と称されました。
このように「十三まいり」で知られ現在も橋の南側にある虚空蔵法輪寺への参拝のために、その門前に架けられた橋であったことから、当初は「法輪寺橋」と呼ばれていましたが、鎌倉中期に亀山上皇(1249-1305)が満月の晩に舟遊びをした際、橋の上空に浮かぶ月を見て「くまなき月の渡るに似たり(月が橋を渡るように見えた)」と感想を詠んだことからいつしか「渡月橋」と呼ばれるようになったといいます。
当初は現在より約200mほど上流に架かっていたといいますが、その後「応仁の乱」での焼失や度重なる水害などで幾度か架け直された後、江戸時代に入った1606(慶長11)年に高瀬川の開削でも知られる京都の富豪・角倉了以(すみのくらりょうい)が大堰川の開削にあたり現在の位置に架橋したと伝わり、また川の名前についても834年頃に道昌が大堰を築造するまでは「葛野川」と呼ばれていましたが、築堤以降は渡月橋の上流一帯は「大堰川」と呼ばれるようになったといいます。
この嵐山の大堰川の屋形船は平安初期の805年(延暦24年)頃から貴族の遊興の一つとして始められたと伝わり、「三舟の才」の逸話で有名な藤原道長も船上にて詩や歌、管弦などを堪能したといわれています。
また大堰川での天皇の御舟遊びは898年(昌泰元年)に第59代天皇である宇多上皇(うだじょうこう 867-931)が嵐山に行幸をされた際に行われたのが起源とされ、以後も度々行われ、平安後期には第72代・白河天皇(しらかわてんのう 1053-1129)が行幸し、「和歌」「漢詩」「奏楽」に長じた者を3隻の船に乗せて御舟遊びをされたといい、このお船遊びは1928年(昭和3年)に車折神社の例祭「三船祭」として再興されています。
以上のように平安期に公家の遊びとして運航されるようになった嵐山の屋形船ですが、戦国期から江戸初期にかけての豪商・角倉了以が大堰川を開削した頃から名勝嵐山の景色を楽しむ観光用としての遊覧船が運行されるようになると次第に一般に親しまれるようになり、明治初期の1912年(明治45年)に当時の船頭が立ち上げたのを創業とし、1926年(大正15年)には川の両側に分かれていた大堰川遊船と嵐峡遊船が合併し、嵐山通船が設立されて現在に至っています。
遊覧船の運行ルートは以前は上流の大堰川と清滝川が合流する地点である「保津峡」付近までロープを使って人力で舟を引き上げて、保津峡から嵐山までを川下りする「保津峡下り」が行われていましたが、船頭数の減少によって戦後まもなく昭和の中頃には保津峡下りは行われなくなり、現在は船乗り場より1kmほど上流まで遡り、嵐山にある渓谷「嵐峡」の入口で折り返し、元の乗り場まで戻る「嵐峡めぐり」が行われています。
遊覧船となる屋形船は屋根のある木の和船で、船の動力としてエンジンはなく、船頭が竹竿一本のみを自由自在に操り、所要時間約30分かけて船頭の観光案内付で遊覧が楽しめるようになっています。
その魅力は何といっても風流な嵐山の風景を水辺から間近に楽しめることで、春は桜、新緑は初夏、秋には色鮮やかなグラデーションが楽しめる紅葉、そして冬は雪景色など、四季折々の景色が楽しめます。
大堰川の渡月橋を挟んで上流の両岸に乗り場があり、遊覧船の種類としては乗合船のほか、予約制の貸切船、また老舗料亭のお弁当や湯豆腐御膳などが味わえる食事付の遊覧船も用意されているほか、遊覧船以外にも桜・紅葉の時期は渡月橋が大変混み合うため対岸への移動にも便利な渡し船や、3人乗りの手漕ぎの貸しボートなど、目的や予算に合わせて様々なプランが用意されています。
当船はその他にも毎年7月から9月中旬にかけて行われる、嵐山の夏の風物詩「嵐山の鵜飼」の観覧にも最適です。
この点「鵜飼」とは、飼い慣らした鵜を巧みに操って川にいる鮎などの魚を獲る漁法のこと。
鵜は飼育中の海鵜で1日に10cm大の魚で約40尾を食餌とするほどの大食で、最大70~80度開くというくちばしをを使って35cm大の魚を丸飲みし、強力な酵素で短時間のうちに消化できるといいます。
そしてその貪食性と高い捕魚能力を利用して行われるのが鵜飼で、首結いと呼ばれる麻縄を首に結ぶことで、大きい魚を胃に飲み込ませず食道に溜まるようにしておき、水に放て捕食させた後、引き寄せて吐き出させて魚を漁獲します。
世界的にも珍しく主に日本と中国で見られる伝統的な漁法で、その発祥や起源については定かではないものの、各地の古墳から鵜飼を表現していると思われる埴輪が出土しており、少なくとも古墳時代には行われていたと考えられ、また文献上では7世紀初めに中国で成立した史書「隋書」の東夷伝倭国条のほか、「日本書紀」の神武天皇の条に「梁を作つて魚を取る者有り、天皇これを問ふ。対へて曰く、臣はこれ苞苴擔の子と、此れ即ち阿太の養鵜部の始祖なり」と鵜養部のことが見え、また「古事記」でも鵜養のことを歌った歌謡が掲載されており、平安時代には在原業平の詠んだ「大堰川うかべる舟のかがり火にをぐらの山も名のみなりけり」の歌にも詠まれるなど、古い歴史を有していることが分かります。
そして鵜飼漁で獲れる魚は、傷がつかない上に鵜の食道で一瞬にして気絶させるために鮮度を保つことができることから、献上品として珍重されたといい、織田信長は長良川の鵜飼を見物し、鵜飼それぞれに鵜匠の名称を授け鷹匠と同様に遇し、また徳川家康は鵜飼いを見物した際に、石焼きの鮎に感賞して毎年鮎を献上するのが例となり、鵜匠21戸に戸毎10両の扶持を給せられるなど、朝廷や幕府および各地の大名によって保護されました。
しかし鵜飼自体は漁獲効率のよい漁法ではないため、明治維新後に大名等の後援を失うとその数は減少、現在は漁による直接的な生計の維持というよりは、伝統的な漁法を披露して見物客を集める観光事業として行われていて、
岐阜県の長良川、大分県日田の三隈川などがよく知られています。
「嵐山の鵜飼」は歴史は古く、千年以上前の清和天皇の代(849-80)に行なわれた宮廷鵜飼がそのはじまりで、徳川時代に途絶えたものの1950年(昭和25年)に戦後復興のため観光事業として再興され、現在も嵐山の夏の風物詩として高い人気を集めています。
舟端にかがり火を焚いて鮎(アユ)を誘い寄せ、風折烏帽子に腰みのの昔ながらの装いの鵜匠の手に繋がれた6羽の鵜は、舵子のかいの音に反応して身を翻し、水面の上下を行ったり来たりして、水中に潜って鮎などの川魚を捕まえます。
そして鵜匠は鵜が口に魚をくわえたところで手綱を引き寄せ、喉をつまみ白く光る魚を次々と吐き出させて漁獲していきます。
この嵐山の鵜飼は毎年7月1日の川開きから9月下旬頃まで開催されますが、当社はこの鵜飼を見物するための鵜飼見物船を運航しており、屋形船の船上から嵐山の夜景と鵜飼を楽しむことができるほか、食事付の遊覧船もあり、食事を楽しみながらゆったりとした気分で鵜飼を鑑賞することができます。
この鵜飼の他にも大堰川の上流付近では年間を通じて様々な行事やイベントが開催されています。
有名なところでは5月第3日曜日の車折神社の「三船祭」、9月第1日曜日の松尾大社の「八朔祭」の船渡御、10月の野宮神社の「斎宮行列」で行われる「御禊の儀」の神事、11月第2日曜日の「嵐山もみじ祭り」、そして12月の「嵐山花灯路」などです。
またマスコットキャラクターの船頭の「通(つう)さん」は2015年(平成27年)にデビューした優しい顔のお爺さんで大ベテランの船頭さんという設定のゆるキャラで、twitterはかなり頻繁に更新され、イラスト付きのツイートも多く、嵐山のアピール活動にも精力的で、語尾に「~のぅ」とつくのが特徴です。