京都市西京区嵐山中尾下町、市の西部にある京都有数の観光名所・嵐山の山の中腹に位置する黄檗宗に所属する禅宗寺院。
山号は大悲閣山で、本尊は恵心僧都作といわれる千手観音菩薩。
大堰川に架かる渡月橋の南岸、千鳥ヶ淵沿いの静かな小道を約1kmあまり上流へ遡った所にある老舗旅館「星のや京都(旧・嵐峡館)」のそばの入口からつづら折りの石段を登った先にあり、途中には印象的な「絶景(Great View)」と書かれた案内板が立てられているのが印象的です。
創建の年代や経緯などについては不詳ですが、当初は清涼寺(嵯峨釈迦堂)の近くにあって後嵯峨天皇の祈願所であったといいますが、その後は長らく衰退していました。
この寺院が歴史の表舞台に登場するのは江戸初期、保津川を開削した豪商・角倉了以(すみのくらりょうい 1554-1614)が、1614年(慶長19年)に工事で亡くなった人々を弔うために、嵯峨の中院にあった千光寺を現在地に移転させて建立してからで、中興開山には二尊院の僧・道空了椿(どうくうりょうちん)が招かれたといいます。
この点、了以は豊臣秀吉より朱印状を得て東南アジア諸国との海外貿易を行った民間貿易の先駆者であると同時に、保津川のほかに京都市内の高瀬川や、静岡の富士川や天龍川などの河川開発工事を行い、わが国の船による水運の発展に貢献した人物ですが、晩年はこの大悲閣の地に隠棲し、開削工事で犠牲になった人々の菩提を弔いながら1614年(慶長19年)7月に61歳で没しています。
境内にある本堂の大悲閣(観音堂)に安置されている本尊・千手観世音菩薩は了以の念持仏で、恵心僧都(源信)(942-1017)の作と伝えられています。
そしてこの大悲閣は大堰川の切り立った岩肌に建てられており、堂内からは保津峡のまさしく「絶景」を眺める事ができるようになっています。
また法衣姿の木像了以像も安置されており、石割斧を手に片膝を立てて太綱の上に座る姿は、まるで現在も川の安全を見守っているかのようです。
ちなみに「大悲閣」の「悲」は悲しいという意味でなく仏教における「慈悲」を表しているといいます。
境内には他に、了以の子角倉素庵(そあん)のが建立した林羅山(はやしらざん)の撰文による了以の顕彰碑や、天龍寺の開山として知られる夢窓国師(むそうこくし)の座禅石と伝える大きな石があり、またまた客殿には嵐山や京都にまつわる様々な古い資料や書物などが置いてあり、ちょっとした資料館の様相を呈しています。
京都市街を一望でき、遠くには比叡山や大文字山をはじめとする東山三十六峰も見ることができる「絶景」ですが、その一方で、千光寺の保津川(大堰川)を挟んだ向かいにある亀山公園(嵐山公園亀山地区)には、寺を創建した了以の銅像が建てられているほか、園内にある展望所から保津峡を眺めると、遠く前方左側の山の中腹あたりに千光寺の堂を目にすることができ、こちらからも「絶景」が楽しむことができるので併せて訪れるのがおすすめです。