京都市左京区若王子町、京都東山三十六峰の一つである標高183mの若王子山の山麓、哲学の道の南の起点である若王子橋近くに鎮座する神社。
京都熊野神社・新熊野神社とともに「京都三熊野」の一つに数えられ、当社は紀州熊野の那智分社にあたるといいます。
紀伊半島の南部の大半を占める紀伊山地は、古くから神々が鎮座する特別な地域として崇められた場所でした。
和歌山・奈良・三重の3つの県にまたがって険しい地形が連なる中で、古くより「南山」と呼ばれるそれぞれが独自の発展を遂げた三つの霊場が誕生。
政治と結びつきの強くなった奈良仏教の世俗化などに反発するかたちで始まり、天台宗・真言宗の密教において行われるようになった山岳仏教のうち真言宗の総本山である「高野山」
自然崇拝に根ざした神道で紀伊半島を浄土とみなす熊野信仰の霊場「熊野三山」
両者が結びついて生まれた修験道の修行の地としての「吉野・大峯」
更にそれらを結ぶ参詣道も形成され、それらは「熊野古道」と総称されています。
紀伊路 大阪方面~田辺
大辺路 田辺~熊野那智大社
中辺路 田辺~熊野本宮大社、熊野三山それぞれを結ぶ
小辺路 熊野本宮大社~高野山
大峯奥駈道 熊野本宮大社~吉野・大峯
伊勢路 三重方面~熊野本宮大社または熊野速玉大社
これらの多様な信仰形態を育んだ神仏の霊場とそれらを結ぶ参詣道の古道がともに広範囲にわたり極めて良好に保全され、山岳、森林と一体となった「文化的景観」を形成しているとして人類共有の財産として認められ、2004年(平成16年)7月、熊野三山を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」として日本で12番目の「世界遺産」に登録されています。
そして「熊野」はそのような紀伊半島の東南に位置し、古代より木や岩、川や滝などを神とする自然崇拝の地として崇められ、本宮(ほんぐう)、新宮(しんぐう)、那智(なち)の3か所にそれぞれ神が祀られていました。
本宮、現在の「熊野本宮大社」は熊野川・音無川・岩田川の三つの川の合流点にある中洲の大斎原にあって川を神格化したものとされ、須佐之男命ともいわれる「家津御子大神(けつみこおおかみ)」が祀られていました。
新宮、現在の「熊野速玉大社」は近隣の神倉山のゴトビキ岩と呼ばれる磐座に祀られていた神で、その後現在地である熊野川の河口付近に新しい宮を作って遷座し「新宮」と号したといい、伊邪那岐神ともいわれる「熊野速玉大神(くまのはやたまおおかみ)」が祀られていました
那智、現在の「熊野那智大社」は那智の滝に社殿を設けて滝の神を祀っていたものがその後那智山中腹の高台の現在地に遷されたもので、伊邪那美神ともいわれる「熊野夫須美(産霊)大神(くまのふすみおおかみ)」が祀られていました。
上記のように元々3つの社はそれぞれ個別の自然崇拝を起源に持っていましたが、6世紀に仏教が伝来してくると熊野では早くから神=仏と考えるいわゆる「神仏習合」が進んで仏教的要素が強まり、神が権(仮)に仏に姿を変えて衆生を救うために現れるという「熊野権現信仰」が盛んとなります。
そして三社の神々にそれぞれ本地仏(ほんじぶつ)があてがわれ、本宮は西方極楽浄土(阿弥陀如来=来世)、新宮は東方浄瑠璃浄土(薬師如来=現世)、那智は南方補陀落浄土(千手観音)の地とされ、熊野全体が浄土の地であるとみなされるようになり、更に三社とも三所権現を相互に祀り合うことで一体化し、「熊野三所権現(熊野三所権現以外の神々も含めて熊野十二所権現とも)」「熊野三山」と呼ばれて現世および来世での救いを願う朝野の人々の崇敬を集めるようになります。
更に平安後期から鎌倉初期にかけての院政期には、白河・鳥羽・後白河・後鳥羽のの各上皇によって熊野御幸が盛んに行われ、とりわけ後白河上皇は34回もの御幸を行ったといい、これによって熊野の名が広く知られるようになり、鎌倉期以降は庶民にも広まり「蟻の熊野詣」とまで形容されれるほど、多くの人々が切れ目なく熊野に参詣したと伝えられています。
明治期に入ると国家の神道国教化政策によって「神仏分離令」が発令され、それぞれ「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」となり、現在も日本全国に約3千社ある熊野神社の総本社であるとともに、「熊野古道中辺路」によって結ばれる「熊野三山」は世界遺産にも登録され、広く信仰されています。
そして「熊野若王子神社」は平安後期の1160年(永暦元年)、後白河法皇が禅林寺(永観堂)の守護神として紀州の熊野権現を勧請し祈願所としたのがはじまりで、社名は祭神の1柱である天照大神の異名「若一王子(にゃくいちおうじ)」にちなんで命名されたといいます。
和歌山県にある熊野三山を詣でる「熊野参詣」にあたっては、その出発点(起点)とされ、熊野御幸では院から出発するとまず若王子社で身を浄め、新熊野社で1回目の休息をとり、それから伏見から淀川を舟で下って紀伊路へと向ったといいます。
また修験者たちは若王子神社の御滝で身を浄めてから出発したとも伝わっています。
室町時代には初代将軍・足利尊氏や8代将軍・足利義政らが崇敬し、義政については1465年(寛正6年)にこの地で桜の花を愛でる宴を開いたと伝えられています。
その後「応仁の乱」により社殿は荒廃しますが、 豊臣秀吉により再興され社殿および境内が整備されました。
江戸時代に入ると、祈願所とされた聖護院門跡院家「正東山若王子」の鎮守を兼ねるようになり、神様の他に薬師如来などの仏様も祀られるようになって参拝者が増加しますが、明治維新後の「神仏分離令」によって当社のみが残り、仏像などは京都各地の寺に安置され、現在は厄除けや開運の神様、また縁結びの神様として若い人にも人気なほか、「京都十六社朱印めぐり」の一社にもなっています。
社殿はかつては本宮、新宮、那智、若宮の4社殿ありましたが度々荒廃し、明治期に修築されたものの1978年(昭和53年)には1つの社に複数の神様を祀る一社相殿の形式に改築されています。
境内は桜や楓など樹木が豊富で、中でもご神木の梛(ナギ)の木は樹齢400年以上で、京都で最も古い梛の木ともいわれています。
梛の木はかつては紀州熊野詣や伊勢参宮の時などの際に禊の木(お守り)として用いられたともいわれ、現在も「あらゆる苦難をなぎ倒す」ことで信仰を集めており、椰の葉のお守りは悩みを「なぎ倒す」と人気を集めています。
また神社の神紋もサッカー日本代表のユニフォームでおなじみの八咫烏(やたがらす)が梛の葉を加えている意匠となっています。
この他に今日でも境内の奥は那智の滝に見立てた滝や奇岩老木の多い場所で地蔵尊や龍神も祀られており、人々の篤い信仰を集めているほか、春は桜花苑、夏は納涼地、秋は一面鮮やかな朱に染まる紅葉の隠れた名所となっています。
また当社の南側の裏山・若王子山の山頂にある市営の墓地には同志社創立者・新島襄や2013年(平成25年)に放送されたNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公・新島八重などの墓があり、近年注目を集めました。