京都市左京区田中門前町、広大な京都大学の吉田キャンパスが広がる「百万遍」の交差点の北東角にある浄土宗の大本山。
「百万遍(ひゃくまんべん)」は寺の通称として親しまれた名前で、東大路通と今出川通の交差点のほか、バス停の名前などにもなっています。
そして浄土宗の七大本山の一山にして、東山の知恩院、岡崎の金戒光明寺、御所西の清浄華院とともに京都における浄土宗の四大本山の一つにも数えられる寺院です。
宗祖法然上人を開祖と仰ぎ、勢観房源智上人を第2世とする寺院で、「法然上人二十五霊場」の第22番札所。
「知恩寺歴志略」によれば、元々は皇円阿闍梨の住房比叡山功徳院の里坊で、平安前期に慈覚大師円仁が創建したものと伝わっています。
場所は現在の北小路(今出川)高倉、現在の相国寺付近にあり、上賀茂神社との関わりが深く、同社の神宮寺でした。
そして円仁作と伝わる釈迦像を安置したことから「今出川の釈迦堂」あるいは賀茂河原(かもがわら)にあったことから「賀茂の河原屋」と呼ばれていたたといいます。
承安5年の3月、43才にして浄土の宗門を開くことを決意した法然(ほうねん)は、比叡山を下り西山の広谷を経て、東山吉水付近に移りますが、賀茂の神職の招きで度々この地を訪れ、都の人々に念仏の教えを説いていました。
法然の入滅後に、その弟子・勢観房源智(せいかんぼうげんち)が後を継ぐと浄土専宗の念仏道場に改められ、法然の御影堂を建立するとともに法然を開山第1世とし「功徳院神宮堂」、更に如空の時に寺名を師の恩徳を偲んで「恩を知る寺」、すなわち「功徳院知恩寺」と改められます。
その後、鎌倉末期の1331年(元弘元年/元徳3年)8月に京都で大地震が発生し、大きな被害が出るとともに疫病が流行し多くの犠牲者が出たことから、知恩寺第8世・善阿空円(くうえん)(普寂国師)が後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の勅命を受けて宮中にて悪疫退散を祈願することとなります。
そしてこの際に宮中秘蔵の弘法大師空海作の利剣名号軸を掲げ、七日七夜かけて百万遍念仏を修したところ疫病は無事に鎮まったことから、これに感銘を受けた後醍醐天皇から「百万遍」の勅号と利剣名号軸及び540顆の大念珠を下賜され、以後は勅願所となりました。
以来、災厄の際に僧俗が輪になって念仏を唱えながら108個の数珠10連を百回まわす「百萬遍大念珠繰り」の儀式が定まり、夏の町内行事・地蔵盆の際に行う行事としても知られるなど、形式を変えつつも全国各地に広まっていますが、その発祥の寺として京都の人々からは「百萬遍さん」と呼ばれて親しまれています。
室町時代に入った1382年(永徳2年/弘和2年)に室町幕府第3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が相国寺を造営するに及んで、寺地を一条通油小路の北、現在の上京区元百万遍町に移転しますが、その後も度々戦火に遭い、「応仁の乱」でも焼失。
その後、1592年(文禄元年)には豊臣秀吉による「京都改造計画」に伴う寺地替えにより土御門、現在の寺町通荒神口上るに移された後、天正18年に寺町の現在の梨木神社付近への移転を経て、現在の北白川の地に移ったのは江戸初期の1662年(寛文2年)のこと。
前年の1661年(寛文元年)正月に禁裏(二条殿)からの火事で類焼したのを受けて第39世・光誉満霊が自ら江戸に赴き、4代将軍徳川家綱(いえつな)より再興料として500両が下賜され、現在地に移転した後、1679年(延宝7年)に竣工され、諸堂が整備されていきました。
境内にはまず南側にある総門の前に「百萬遍念佛根本道場」と書かれた高さ5mの石柱がそびえ立ち参拝者を出迎えます。
そして門をくぐると真っ直ぐ続く参道の先に御影堂(大殿)があり、その途中左手西側に阿弥陀堂、右手東側に釈迦堂が向かい合うようにして建てられ、左右には塔頭寺院が並んでいます。
更に御影堂(大殿)の後方の北側に小方丈、衆会堂、対面所、寺務所などの堂宇が南北に整った形で配置され、御影堂(大殿)の東側には勢至堂、納骨堂、更に北側には広大な墓地。その正面奥には法然の御廟があり、勢観房源智も並んで安置され、御廟の入口には念仏の「念」の字を模った念字門という配置となっています。
この他に賀茂社の神宮寺としての起源を持つことから、境内に賀茂明神が鎮座。
また御影堂正面の法然上人御像は、室町時代の像で、上人43の頃を写した姿です。
この他に御影堂の堂内には御影堂内を一巡りするように円周約110m、重さ320kg、珠の数1080顆の大念珠が二連吊り上げられており、毎月15日(8月のみ25日)には午前中に写経会が催された後、午後からの大殿法要の際に巨大な数珠を参詣客らが同時に持ち、念佛を唱えながら100回まわす「大念珠繰り(百萬遍大念珠繰り)」が行われることで知られています。
そして同日に境内にてフリーマーケットの「百萬遍手づくり市」が開催されることでも有名で、本堂や庫裡などの伽藍も会場として貸し出されて、手作りの菓子や野菜や漬物、古着や陶器を販売する店や、マッサージ店などが境内に所狭しと出店し、多くの人で賑わいます。
更に京都古書研究会の主催で毎年10月末から11月初に開催される「秋の古本まつり」は京都を代表する古本まつりの一つとしてよく知られています。