長徳寺
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長徳寺のみどころ (Point in Check)
京都市左京区田中下柳町、鴨川と高野川が合流する出町柳やや南の鴨川東岸、出町柳駅やや南の川端通沿いにある浄土宗寺院。
江戸初期の1605年(慶長10年)、摂津溝口領主の長谷川宗仁(はせがわそうにん 1539-1606)が万愚牛廊を開山に裏寺町(現在の京都市中京区)に創建したのがはじまり。
長谷川宗仁は安土・桃山時代から江戸初期にかけて活躍した茶人、武将で、京都の町衆・長谷川宗昧の一族の出身ともいわれ、信長・秀吉・家康のそれぞれに仕えたことで知られています。
信長の奉行集を務め今井宗久とともに但馬生野銀山の確保などを援助し、「本能寺の変」の際には当時本能寺の近くに居を構えていたことからすぐに飛脚を遣わして備中で毛利氏と対峙していた秀吉に知らせたという。
信長の没後は秀吉に仕え、1589年には豊臣家の直轄領・伏見の代官に任じられたほか、フィリピン貿易の担当者となってマニラ侵攻計画を進言したことでも知られ、また名護屋城の築城の作事奉行や明よりの使者の饗応役も務めたほか、秀吉晩年の「醍醐の花見」でも秀吉に従事しています。
「関ヶ原の戦い」では西軍に加わるも赦されており、戦後は家康に仕えて北政所の番を務めました。
その一方で法眼の位が許された絵師、また茶人として活躍し大名物「長谷川肩衝(古瀬戸茶入)」の所持者としても知られる人物です。
その後火災に遭い焼失したのを機に1672年(寛文12年)に現在地に移転。
かつてこの地には鴨川と合流する砂川(すながわ)という小川が流れていたため、近隣にある常林寺、正定院とともに浄土宗の「砂川の三軒寺」と呼ばれて人々より親しまれていたといいます。
その他にも境内墓地には幕末に鷹司家に仕え1858年(安政5年)の「安政の大獄」で連座して獄死した勤皇の志士・小林良典(こばやしよしすけ)の墓がある事や、1918年(大正7年)に富山県魚津町から全国に広がった米価の暴騰に苦しむ民衆が米屋を襲撃するなどした「米騒動」の際には京都で最も激しい騒動が起きた場所となり、警察だけでは鎮めることができずに軍隊(伏見の第十六師団)が出動する騒ぎとなった場所としても知られています。
近年は山門脇に植えられている濃いピンク色をした早咲きの「おかめ桜(オカメサクラ)」の名所として知られており、2月下旬には開花する京都市内で最も早く咲く桜の一つで、京都に春の訪れを告げる風物詩として有名となっています。
1947年(昭和22年)に発表された寒彼桜と豆桜を交配して作出した栽培品種で、イギリス人の桜研究家・イングラムにより作出されたという、外国生まれの桜で、日本の美女「阿亀(おかめ)」になぞらえて命名されました。
花の大きさは小輪ながら、あでやかな紅紫色で直径15ミリ、花弁は5個、花は下向きに下垂してつくのが特徴で、長徳寺には1993年(平成5年)に植えられたといいます。
通常非公開寺院ですが、桜は山門前にあるため見学・撮影は可能で、また山門右横の地蔵堂のガラス面に映るオカメ桜も美しく必見となっています。
そしてその地蔵堂には、かつて百済国王の守り本尊で、第35代・舒明天皇の御代に一切教と共に百済から渡来したという北向地蔵尊が安置されています。
平安初期に西寺に下賜されたものの、西寺の衰退後は物集女里の一宇に遷され、その後安土桃山時代から江戸時代にかけて関白太政大臣を務めた鷹司信房が家臣の小林家定に命じ長徳寺に遷したといわれています。
長徳寺の施設案内
境内
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門前
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寺号標
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おかめ桜
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寒緋桜
おかめ桜の隣
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地蔵堂
山門手前右
北向地蔵尊を安置
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駐車場
山門手前左
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山門
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参道
山門から境内の様子が見える
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本堂
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庫裏
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生柳(うりゅう)弁財天
山門の内側の右
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周辺
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出町柳駅前バス停
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正定院
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出町柳駅前バス停
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正定院
長徳寺の主な年間行事・カレンダー
年中行事
月並行事
花ごよみ
- 3月中~3月下
桜(サクラ)
おかめ桜
長徳寺のレポート・旅行記
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