京都市東山区大黒町通松原下ル北御門町、建仁寺の南東、大和大路通と松原通の交差点の南西を南北に走る大黒町通沿いにある日蓮宗寺院。
山号は興福山、本尊は一塔両尊(釈迦如来・多宝如来)。
江戸初期の1616年(元和2年)、日蓮宗の僧・円乗院日柔を開山として創建されたと伝わり、かつては千葉県鴨川市小湊にある大本山・誕生寺の末寺であったといいます。
本堂には中央に一塔両尊の釈迦如来・多宝如来および日蓮上人、脇には四大菩薩、持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王、その他の諸尊、また向かって左には鬼子母尊神、右には大黒天を祀っています。
このうち右側に祀る「油涌大黒天(あぶらわきだいこくてん)」は伝教大師最澄作と伝わり、門前から南へと続く現在の「大黒町通」の名前のの由来にもなっているといいます。
そして一番の見どころとなっているのが、参道途中右手にある洗心殿で、祀られている石像は「浄行大菩薩」といい、釈迦が末法に遣わした四大菩薩の一人で風・火・水・地のうち水徳の仏様で、水徳の力で知らず知らずの間に傷つけたり汚してしまった心をきれいにし、また病気平癒や眼病に霊験あらたかだといいます。
水を仏にかけて体の悪い所をタワシで洗うとご利益があるとされ、通称「あらいぢぞう」と呼ばれて全国各地よりの参詣者が絶えないといい、とりわけ付近に祇園や宮川町といった花街や南座があることから芸舞妓や芸能人などの参拝も多く、芸妓が旦那の浮気封じのために祈願したともいわれています。
その他にも行事としては毎年6月1日にその浄行大菩薩にちなんで、境内にて病気平癒や所願成就を祈念する「浄行大菩薩大祭」が行われ、法要やお火焚き祭が厳修されます。
また平安時代、鴨川に架かる五条の橋(現在の松原橋)を東へ渡ったこの辺りには「十禅師の森」があり、森の中には明治維新前に廃されるまで日吉山王七社権現の一つである十禅師(じゅうぜんじ)を地主神として祀った十禅師社(じゅうぜんじのやしろ)があったといいます。
十禅師は国常立尊(くにのとこたちのみこと)から数えて第10の神にあたる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)(天照大神の孫すなわち天孫として高天原から日向に降り、皇室の祖先になったとされている神)を、地蔵菩薩の権現(ごんげん)(仏や菩薩が人々を救うために神という仮の姿をもってこの世に現れたもの)とみて名づけられたものです。
そして謡曲「橋弁慶」によれば、武蔵坊弁慶は願い事があって北野の天神に丑の刻詣をし、17日の参籠の後、十禅師詣をしようとした所、その通り道にある五条の橋にて昨晩12、3の少年が出現し通行人を小太刀で斬って回ったとの話を耳にし、討ち取る決心をして橋に向かったものの、そこへ現れた牛若丸(後の源義経)に散々に打ち負かされ、その後、十禅師の森へと引っ立てられて主従の誓いを結ぶこととなったとされてます。
江戸時代に入りその十禅師の森の旧跡に創建されたのが当寺であり、境内の中庭には五条大橋旧跡の碑があるほか、近年になって境内参道の途中右手に十禅大明神を祀る社が復興されたといい、当時を偲ぶことができるようになりました。