京都市東山区下河原町、高台寺北門通(ねねの道)とその一本西の下河原通を東西につなぐ、石畳と石塀が美しい小路。
下河原通側は八坂神社の南楼門から出て下河原通を南に下がり、3筋目(もしくは4筋目)の左手、またねねの道側は高台寺の南に隣接する高台寺公園の向かいが入口となっていて、入口の外灯に「石塀小路」と書かれているのが目印。
小路のある下河原町の界隈は、江戸時代の初めまでは地名の由来である北の菊谷川と南の清水川とに挟まれた河原だった場所で、その後「大阪の陣」で大坂城が落城した後、徳川家康が豊臣秀吉の正室である高台院・北政所(ねね)を慰めるために配慮して集めたという舞芸に達者な女たちがこの地に居を構え、その没後に下河原遊郭へと発展していったといいます。
また江戸初期には八坂を中心に茶屋が認可されたこともあり、祇園社(現在の八坂神社)の正面である南楼門の門前に位置することから祇園同様に遊興地として発展し、「京都覚書」によれば1693(元禄6年)には下河原通り沿いの町にも52軒もの茶屋があったといいます。
その後、遊郭が明治初期に廃絶し明治19年に祇園新地と合併の後は静かな住宅地に変貌。また明治末期から大正初期にかけて行われた京都市三大事業によって東山通(現在の東大路通)が開通し京都市電の東山線が敷設されると周囲の雰囲気は大きく変わりますが、下河原通の界隈は現在も往時の情緒をとどめる格子戸の旅館や料亭・お茶屋などが多く残り、祇園の奥座敷として親しまれているエリアとなっています。
石塀小路の歴史は浅く、明治末期から大正初期にかけて形成され、高級感を出すために石垣を高くして石畳を敷き詰めたといい、町家の石垣がまるで石塀のように見えることから「石塀小路」と呼ばれるようになったといいます。
車の通行できない、人が二人並んで歩けるくらいの昔ながらの路地の雰囲気に、路面には石畳が敷き詰められ、両側には木塀や石垣を備えた町家の立ち並ぶ京都らしい風情の漂う路地空間で、小路に入った途端、タイムスリップしたような不思議な感覚を覚えるその美しい景観は、1995年(平成7年)12月に国の重要伝統的建造物群保存地区である「産寧坂重要伝統的建造物群保存地区」の一部に追加指定され、景観の保護が図られているほか、その絶好のロケーションからドラマや映画、雑誌などにもよく取り上げられる京都東山を代表する名所の一つとなっています。
石塀小路は八坂神社と清水寺の間にあることから、高台寺や八坂の塔(法観寺)、二年坂や産寧坂などと合わせて見学すると効率良く観光を楽しむことができます。