京都市東山区粟田口鍛冶町、京都と江戸を結ぶ街道「東海道」の終着点である三条大橋から三条通を東へやや進んだ先、京の七口の一つである「粟田口」に鎮座し、古くから旅立ち守護の神として崇敬を集めている神社。
創建は平安初期、清和天皇の時代の876年(貞観18年)、都に悪疫が流行した際、国家と民の安全を祈願するため、全国の諸神へ勅使が遣わされましたが、このうち従五位上出羽守の奉行・藤原興世は勅使として感神院(かんじんいん)祇園社(現在の八坂神社)に派遣され、七日七晩の祈願を行いました。
そしてその満願の夜、興世の枕元に大己貴神を名乗る老翁が現れ、「祇園の東北に清き処あり。其の地は昔、牛頭天王に縁ある地である。其処に我を祀れ」と告げて消えたといいます。
興世は神意なりとこれを朝廷に奏上し、それを受けて勅命により直ちにこの地に社が建てられ、その神霊を祀ったのがはじまりと伝えられています。
また一説には、第5代・孝昭天皇の分かれである粟田氏が、この地を治めていた際に氏神として創建したともいわれています。
旧社名は、八坂神社の旧名「感神院(かんじんいん)」に対し、「感神院新宮(かんじんいんしんぐう)」あるいは「粟田天王宮」と称していましたが、明治期に「粟田神社」と改められ現在に至っています。
祭神は主祭神として素戔嗚尊(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、
左殿に八大王子命(はちだいおうじのみこと)
右殿には奇稲田媛命(くしなだひめのみこと)、神大市比賣命(かむおおいちひめのみこと)、佐須良比賣命(さすらひめのみこと)
が祀られており、スサノオノミコトおよびオオナムチノミコトを主祭神として祀っていることから「厄除け・病除け」の社として信仰を集めています。
また「京の七口」の一つで東の出入口である「粟田口」に鎮座することから、古くから「旧東海道」「東山道」の街道を行き来する人々が道中の安全祈願に、あるいは道中の無事に感謝して訪れたことから、「旅立守護・旅行安全」の神としても知られるようになりました。
社殿は平安初期に建てられたものは現存せず、現在の本殿と拝殿は江戸中期から末期にかけて再建されたものです。
また東山連峰の「粟田山」の山麓に位置し、小高い場所にあることから、境内からは比叡山から愛宕山までを一望することができるほか、夏の風物詩「五山の送り火」の際には、左大文字と船形を見ることもできるといいます。
行事としては10月の体育の日前後に行われる「粟田祭」が1000年の歴史を持ち、「京都三大祭」としておなじみの八坂神社の「祇園祭」とも関わりのあるお祭りとして有名です。
その発端は、1001年(長保3年)の旧暦9月9日の夜に一人の神童が祇園社(現在の八坂神社)に現れてお告げを告げたことにはじまるといい、「今日より7日後に祇園社の東北の地に瑞祥が現れる。そこに神幸すべし」とのお告げどおり7日後に瑞光が現れた場所が当社だったといいます。
また応仁の乱や延暦寺の意向などで祇園祭が中断された室町時代には、粟田祭を祇園祭の代わりとしたこともあるといわれています。
この点、主な行事としては体育の日前日の「夜渡り神事」と翌日の体育の日の「神幸祭」が有名です。
まず「夜渡り神事」では、祭の呼びものの剣鉾18基が飾りつけられ、「阿古陀鉾」「地蔵鉾」の2基が、知恩院前の「瓜生石」前にて「れいけん」の祭りを行った後に「夜渡り」します。
そして「れいけん祭」は知恩院の僧侶による法要も執り行われるなど、神仏合同で行われるのが珍しく、更に「大燈呂(だいとうろ)」は剣鉾とともに灯りをともしながら氏子町内を巡行するもので、青森県のねぶたの原型ともいわれ、近年180年ぶりに復活しかつての賑わいのある祭の形により近づきました。
そして「神幸祭」は剣鉾巡行と神輿渡御が中心ですが、まず剣鉾(けんぼこ)は祇園祭の山鉾の原形といわれており、巡行径路のポイントポイントで鉾差しが行われて大いに盛り上がります。
一方神輿も各所で差し上げを行うなど見どころ満載ですが、のち天台宗の門跡寺院・青蓮院門跡の鎮守社となった経緯から、神輿が途中青蓮院へと立ち寄るのも見どころの一つとなっています。
この他にも境内の出世恵比須社には、伝教大師作の日本最古の木像のえびす像が祀られ、家運隆盛、商売繁盛の神様として厚い信仰を集めており、毎年1月9日~11日の「十日えびす」の期間にのみ御開帳がなされるほか、「京都十六社朱印めぐり」の一社としても知られています。