高山寺(賽の河原)

高山寺(賽の河原)

 

 

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高山寺(賽の河原)とは?(基本データ)

名前
高山寺(賽の河原)(こうさんじ(さいのかわら))
エリア
二条城
ジャンル

寺社 子供守護

建立・設立
創建年不詳
創始者
善西
宗派
浄土宗鎮西派
山号
日照山
本尊
子授地蔵菩薩(子安地蔵)
寺紋
 
アクセス
  • 阪急京都線「西院」駅下車 徒歩約2分
  • 京福電鉄(嵐電)嵐山本線「西院」駅下車 徒歩約2分
  • JR嵯峨野線(山陰本線)「二条」駅下車 徒歩約15分
  • 京都市営地下鉄東西線「二条」駅下車 徒歩約15分
  • 京都市営バス「西大路四条(阪急・嵐電西院駅)」(3・8・11・13・26・27・28・29・67・69・71・75・91・202・203・205・臨号系統)下車 徒歩約2分
  • 京都バス「西大路四条」(71・72・73・74・75系統)下車 徒歩約2分
駐車場
なし
拝観料
境内自由・無料
お休み
-
拝観時間
7:00~17:00頃
住所
〒615-0012
京都府京都市右京区西大路四条北東角西院高山寺町18
電話
075-311-1848
FAX
075-311-1848
公式サイト
高山寺 浄土宗
淳和院跡 京都市

高山寺(賽の河原)の地図

高山寺(賽の河原)のみどころ (Point in Check)

京都市右京区西大路四条北東角西院高山寺町、四条通と西大路通の交差する「西院」交差点の北東角にある浄土宗鎮西派の寺院で、「賽の河原」の通称で知られています。

一帯は平安初期には桓武天皇の第3皇子である第53代・淳和天皇(786-840)の離宮があった所と考えられています。
元々は「南池院」と呼ばれ淳和天皇の即位前からの御所でしたが、833年(天長10年)に仁明天皇に譲位した後に「淳和院(じゅんないん)」と改められたといい、四町四方規模の景勝地として知られていて、度々詩会が行われたといいます。

そして淳和院は御所の西にあった離宮であり、また平安時代の佐比大路(道祖大路)(さいおおじ)(現在の佐井通(春日通))にも近かったことから「西院(さいいん/さい)」とも呼ばれ、現在まで続く「西院」という地名はこれにちなむものとされています。
この点、「西院」の読み方については漢字の音読みに引かれて「さいいん」とも呼ばれていますが、伝統的な呼称は「さい」の方だといいます。

840年(承和7年)に淳和上皇が崩御した後は、淳和院は出家した皇太后・正子内親王(810-79)の仏道修行の道場となり、879年(正平2年)の皇太后の没後はその遺命によって寺に改められ院号を改めず尼寺となりますが、その後荒廃しました。

室町初期の1347年(貞和3年)、室町幕府の初代将軍・足利尊氏が近江堅田にあった地蔵尊を移して「高西寺(こうさいじ)」を建立。

本堂に本尊として安置された地蔵尊は「子安地蔵」と呼ばれ、安産・子授けにご利益のある地蔵尊として信仰を集めたといい、8代将軍・足利義政の夫人・日野富子もここで祈願し、義尚を生んだといわれ、その後も洛内の六地蔵の一つとして霊験あらたかだったといいます。

高西寺は元々は現在地の南東、四条御前の南の方にあった高台の上にありましたが、桃山時代に秀吉が京都改造計画の一環として行った「御土居」の建設の際にその予定地にあったため、秀吉の命によって現在地に移され、寺名も「高山寺」と改められました。

ちなみに現在本堂の手前左にある大きな石像の地蔵尊は、後に御土居を取り崩した際に出土した大量の石仏を供養するために明治期に金戒光明寺(黒谷)から移されたものだといいます。

そしてこの御土居から出土した石仏群は「賽の河原」の通称に関係しているものだと考えられます。

「賽の河原」といえば冥途(あの世)にあるという三途(さんず)の川のほとりにある河原として知られていますが、この通称は平安時代は佐比大路、現在の佐井通(春日通)に沿って流れ、昭和初期に地下鉄の工事をする際に暗渠とされるまで存在していたという佐比川(左比の河原)(さいがわ(さいのかわら))に由来したものと考えられます。

平安中期に入ると平安京の右京は衰退・荒廃し、西院の地は庶民や子供の葬送地とされ、河原には多くの子供が捨てられたり、死骸が放置されたりという荒れ果てた地であったといいます。

そんな悲惨な状況を見た空也上人が残したのが「賽の河原地蔵和讃」という賛歌で、親より先に死んだ子供が親不孝の罰として三途の川(賽の河原)で小石を積んで塔を造ろうとすると、地獄の鬼が現れて積んだ石を鉄棒で崩してしまう、子供がそれでもなおこの世の親を慕って恋い焦がれていると、そこへ地蔵菩薩が現れ、今日からは自分を冥途の親と思いなさいと抱きあげて救う様子がうたわれており、石仏は人々が河原の石を墓石に見立て、あるいは地蔵菩薩を刻んで供養したと考えられるもので、高山寺に集められたものは約350体にも及んでいるといいます。

そして江戸時代に入ると子安地蔵尊としての信仰とは別に「賽(さい)の河原」が「西院(さい)の河原」であり、高山寺が地蔵信仰を詠った「賽の河原地蔵和讃」の舞台であると考えられるようになり、子安地蔵も子供を救うお地蔵様として多くの人々の信仰を集めたといいます。

高山寺(賽の河原)の施設案内

 

境内

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    山門

     

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    寺号標

    山門右

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    淳和院跡の石標

    山門左、1970年(昭和45年)に京都市によって設置
    高山寺は淳和院のほぼ南東隅にあたるという 
    1993年(平成5年)に大型家電量販店ジョーシンが建設された際に発掘調査が行われ、淳和院の建物跡が発掘された
    ジョーシンの壁にも淳和院の説明板が取り付けられている

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    手水舎

    山門くぐって右

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    六地蔵

    手水舎の左

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    銀杏の木

    山門右

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    本堂

     

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    御詠歌の額

    本堂正面に掛かる
    くろだにを はやたちいでて こうさんじ さいのかわらを まもるみほとけ

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    なでぼとけ

    本堂手間左

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    庫裡(玄関)

    本堂左隣

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    風災慰霊塔

    本堂手前左、地蔵尊の右隣りにある
    1934年(昭和9年)9月21日の室戸台風では西院小学校(当時は淳和小学校)の生徒と先生が亡くなったといい、その犠牲者たちを慰霊するために建立されたもの
    西院小学校にも風災記念碑がある

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    地蔵尊

    金戒光明寺から移されたものだという

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    石仏地蔵群

    秀吉が築いた御土居から出土したという

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    鐘楼

    山門くぐって左

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    水子地蔵

    山門くぐって左

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    宝篋印塔

    山門くぐって左

周辺

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    西院交差点

     

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    右京警察署 西大路四条交番

     

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    阪急西院駅

     

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    西大路通

     

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    嵐電西院駅

     

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    四条通

     

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    ジョーシン 京都1ばん館

     

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    淳和院の説明版

    ジョーシンの四条春日(佐井)交差点角付近の壁に設置

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    佐井通(春日通)

    平安時代は佐比大路(さいおおじ)

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    西院春日神社

    淳和院跡の礎石がある

高山寺(賽の河原)の口コミ

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