京都市中京区釜座通二条上ル大黒町、釜座通二条にある黄檗宗の寺院。
京都十二薬師霊場の第9番札所にもなっている寺院です。
この点、本尊の薬師如来像は、比叡山延暦寺を開き天台宗の祖として知られる伝教大師最澄が、782年(延暦元年)、16歳の時に大願により一刀三礼の礼(1回刻むたびに3回拝む)を尽くして彫刻した薬師仏七体のうちの一体とされていて、薬師如来のうち現存するのは延暦寺と同院の2体のみという非常に貴重な像であり、当時、比叡山の五障三従(ごしょうさんじゅう)の女人禁制を嘆き悲しみ、美濃国(岐阜県)横倉に一院を設け安置されたものだといいます。
その後、鎌倉時代の1230年(寛喜2年)に京の市中で疫病が流行し、貴族や民衆の区別なく死者が相次いだある日のこと、この寺の住職の夢に薬師如来が現れて、「一切病苦の衆生、我が前に来たらば諸病ことごとく除くべきに、不来乎(来ぬか)、不来乎(来ぬか)」とのお告げがあったといいます。
このことに住職が感涙し、これを世間の人々に告げて広め回ったところ、遠国からも病人が集まり、本尊にお祈りするとたちまち病気は治まったといい、以来この本尊を「こぬか薬師」と称するようになったといわれています。
その後、戦国時代に京への上洛を果たした織田信長がそのご利益を聞き、美濃の医徳堂に安置されていたものを薬師院に移したと伝えられていて、更に江戸時代の1688年(元禄元年)には黄檗宗の鉄面寂錬によって再興され、水薬師、蛸薬師と並ぶ「京都七薬師」の一つに数えられるようになりました。
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以前は大黒町一帯にまたがる広大な境内を持っていたといいますが、1864年の「蛤御門の変」で焼失。
1889年に裏門を正面にして縮小再建され、現在は本堂と庫裡を残すだけとなっています。
この他に薬木「黄檗樹(きはだ)」で製作した数珠に疾病退散のご利益があることで知られ、具合の悪い所をさするとよいとされています。