京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町、御所東にある浄土宗の大本山。
総本山の知恩院に続く浄土宗の七大本山の一つ(他に東京の増上寺、百万遍知恩寺、金戒光明寺、福岡県久留米市の善導寺、神奈川県鎌倉市の光明寺、長野県長野市の善光寺大本願)であり、また知恩院、百万遍知恩寺、金戒光明寺とともに京都四箇本山の一つにも数えられている寺院です。
なお呼び名は通常「浄華院(じょうけいん)」といい、呼称は院号のみで、山号・寺号はありません。
寺伝「清浄華院誌要」によると、平安初期の860年(貞観2年)、清和天皇(せいわてんのう)の勅願により、慈覚大師円仁(えんにん)が京都御所の構内に御内仏殿の造営に着手し、864年に落成の後、鎮護国家を祈願するための禁裏内道場としたのがはじまりとされています。
この点、寺名は「浄土に咲く蓮の華のように清らかな修業ができる場所」という願いを込めてつけられたといい、当初は円(法華)・密(密教)・浄(浄土)・戒(戒律)の四宗兼学の寺院であったといいます。
その後、浄土宗の宗祖・法然(ほうねん)が後白河天皇・高倉天皇・後鳥羽天皇の3代の天皇に授戒し帰依を得ると、その功績によりこの道場を下賜され、以後浄土宗に改められたと伝えられ、こうした経緯から慈覚大師円仁を開創開山、法然上人を改宗開山・中興の祖・念仏の開祖第一世としており、また「法然上人二十五霊場」の第23番札所にも数えられています。
もっとも清浄華院の存在が史料によって裏付けられるのは鎌倉後期のことで、向阿証賢(是心)(こうあ 1265-1336)が事実上の開基とされています。
向阿は1302年(乾元2年)に兄弟子・専空より三条坊門高倉(現在の中京区御池高倉の御所八幡宮付近)の専修院(専修念仏院)を伽藍や本尊ごと譲り受け、のちに「浄華院」と改称したことが記録として残されています。
その後、室町時代の14世紀中頃に土御門室町(現在の京都市上京区元浄花院町付近)に移転していますが、室町期を通して京のメインストリートであった室町通に面し、土御門東洞院殿や室町第にも程近い政治と文化の中心地に伽藍を構えることとなったため、皇室や公家のみならず幕府や武家の帰依も受けたちまち浄土宗の筆頭寺院となり、「鎮西一流の本山」とも称されるほどの隆盛を極めたといいます。
しかし「応仁の乱」が勃発するとその室町幕府に近いという地理的優位性はでは逆に災いし、緒戦にて室町第攻防のための戦火に包まれたのを皮切りに度重なる戦闘に巻き込まれて荒廃。
更に戦国時代に入り朝廷や室町幕府の権威が失墜するにつれて衰微していき、更に17世紀初頭に金戒光明寺(こんかいこうみようじ)が多数の末寺を伴って独立したこともあって、寺勢は著しく衰えたといいます。
その一方で浄土宗寺院の中では前述の金戒光明寺と、東山の知恩院が徳川幕府の帰依を得て伽藍を整え隆盛していくこととなります。
またこれと前後する天正年間(1573-92)には、豊臣秀吉の京都改造計画に伴って現在地の御所西側の寺町広小路に移転されています。
その後、幕末に戊辰戦争における薩摩藩の陣所の一つになった後、御所警備を担当した肥後熊本藩・会津藩・薩摩藩の宿所の一つとなり、会津藩主で京都守護職となった松平容保も同寺にて半年間を過ごしています。
明治以降も廃仏毀釈や浄土宗内の混乱、そして失火で伽藍を焼失するなどの災難が続きますが、1911年(明治44年)の法然上人七百年大遠忌をきっかけに伽藍が再興され現在に至っています。
伽藍は寛文期の火災や、宝永の大火、天明の大火などで焼失・類焼していますが、その都度御所の用材を下げ渡される形を取って再建されており、そのため御所の格式と同様の建築物を誇りました。
更に2011年(平成23年)の法然上人八百年大遠忌に際しては、その記念事業として阿弥陀堂、不動堂、鐘楼の再建の他、是心堂やつきかげ苑の建立なども行われています。
注目すべき建造物としては、まず「大殿(御影堂)」は1909年(明治42年)に木曾御用林を用いて再建されたもので、堂内には42歳の厄年に自ら彫ったものと伝えられる本尊・法然上人像や、清和・村上両天皇の尊像、歴代天皇の尊牌を安置しています。
次に「不動堂」の不動明王は「身代り不動」といわれ、その霊験譚は重要文化財の「泣不動縁起絵巻」にも語られており、また「鐘楼」には「慶長15年(1610年)」の銘をもつ梵鐘が懸かっていることで知られ、更に墓地には立入宗継や山科言継、姉小路公共など歴史上著名な人物の墓があることでも有名です。
寺宝としては、普悦筆の絹本著色「阿弥陀三尊像」が国宝に指定されているほか、室町期作の前述の紙本著色「泣不動縁起(なきふどうえんぎ)」絵巻が国の重要文化財に指定されています。