京都市南区唐橋西寺町、世界遺産・東寺の羅城門跡を挟んで西、794年(延暦13年)に平安京が造営された時に東寺とともに創建された「西寺跡」の残る唐橋西寺公園の北側に鎮座する神社。
創建は奈良時代の711年(和銅4年)、第43代・元明天皇の時代の鎮座とされていますが、江戸後期の1857年(安政4年)に奉納された「御神鏡(ごしんきょう)」の記録によると、飛鳥時代、538年(宣化天皇3年)の仏教伝来の頃の鎮座とされ、その歴史は全国に3万社あるといわれる稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社よりも古く「元稲荷」とも伝えられています。
平安期以降は元天文家で陰陽師であった安倍晴明(あべのせいめい 921-1005)の子孫・安倍土御門家(あべつちみかどけ)がその鎮守社として祭祀を行い、平安朝および人民に利益を施し、天下泰平・五穀成就を祈願したと伝えられています。
元々は現在地より東へ約240m、北へ390m、七条村梅小路の土御門邸の東方付近にありましたが、明治後期に当時の鉄道院による梅小路軌道拡張のために立ち退きを余儀なくされ、1911年(明治44年)に唐橋村の崇敬者有志により唐橋の地に招致されて遷座し現在に至っています。
「本殿」は江戸初期1620年(元和6年)に再築の後、1850年(嘉永3年)に改築、1857年(安政4年)11月に新社造立、1911年(明治44年)に神社移転に伴う移築の後、1996年(平成8年)11月に新社殿が造立され、主神として「倉稲魂大神(うがのみたまのおおかみ)」と「猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)」を祀ります。
このうち「倉稲魂大神」は伊勢外宮鎮座の豊受大神(とようけおおかみ)と同一神で、古くから五穀豊穣をはじめ衣食住および商工業繁栄の神として敬われ、万の生業に福利を授けてくださる開運の神様です。
一方「猿田彦大神」は天照大神の孫すなわち天孫として高天原から日向に降り、皇室の祖先になったとされている瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降臨した際にその道案内をした神で、広く人事を良い方向へと導く、家内安泰・交通安全の神様として知られています。
その他にも境内には末社として稲荷山三の峯と同一神の「白菊稲荷神社(白菊稲荷大神)」のほか、浄蔵貴所(じょうぞうきしょ 891-964)を祀った「浄蔵貴所之塚」があります。
この点、浄蔵貴所は平安中期に活躍した天台宗の僧で、文章博士・三善清行の子で、母は嵯峨天皇の孫とも伝わり、4歳で千字文を読み、7歳で父を説得して仏門に帰し、熊野や金峯山を経て12歳で宇多法皇の弟子となり、受戒後は19歳で比叡山横川に籠って毎日法華六部誦経、毎夜六千反礼拝を行ったといいます。
加持祈祷を得意とし、呪力を発揮して数々の予言や奇跡を起こしたことで知られ、菅原道真の怨霊に悩んだ藤原時平を護持祈念すると2匹の青竜が時平の左右の耳から頭を出した話や、平将門の降伏を祈祷し調伏した話、五重塔(八坂の塔)が西に傾いた際に加持により元に戻した話、一条戻橋にて死んだ父・三善清行を一時的に蘇生(そせい)させた話などが有名で、日本三大祭の一つである「祇園祭」の山鉾の一つである「山伏山」のご神体としてもおなじみです。
また授与品としては奇蹟を招く呪符で、交通事故などの「災難除け」や、試合・受験などで「勝運」を呼ぶとされる「サムハラ守」を授かることができることで知られています。
戦国時代の武将・加藤清正はサムハラの4文字を刀に掘りつけてあったために九死に一生を得たという話が伝わり、また日清・日露戦争などの戦争においても弾丸除けの御守である千人針や兵士の衣服など書き込まれ、そのお陰で軽い怪我で済んだと伝えられています。