京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町、京都駅のすぐ北側、烏丸六条にある寺院で、全国に9000の末寺を従える親鸞を宗祖とする浄土真宗大谷派の本山。本尊は阿弥陀如来。
東本願寺は浄土真宗本願寺派本山の「西本願寺(正式名称は本願寺)」に対して付けられた通称で、正式名称は「真宗本廟」ですが、堀川七条に位置する「西本願寺」(正式名称「本願寺」)の東に位置するため、これと区別するため「東本願寺」と通称されることが多く、他にも「お東」「お東さん」の愛称でも庶民に親しまれており、通称ではあるものの真宗大谷派として「東本願寺」の通称を公式サイトや出版物などにも用いているといいます。
この点、浄土真宗は鎌倉中期に親鸞聖人によって開かれ、その後室町時代に第8世・蓮如(れんにょ)によって民衆の間に広く深く浸透して発展し、現在も日本における仏教諸宗の中でも代表的な教団の一つとなっています。
鎌倉中期の1272年(文永9年)、浄土真宗の開祖・親鸞の娘・覚信尼により、親鸞の廟堂(墓所)として京都東山の吉水の地に創建されたのがはじまり。
その後、1321年(元亨元年)頃、第3代・覚如(1270~1351)(覚信尼の孫)のときに「本願寺」と公称するようになり、更に室町中期には第8代蓮如上人の尽力により大教団に発展します。
しかしそれを警戒した比叡山延暦寺からの迫害や、戦国時代の織田信長との「石山合戦」などを経て各地を転々。
1591年(天正19年)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から堀川通に面した七条堀川に移転した後、1602年(慶長7年)には関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康の宗教政策により東西に分立し、「真宗本廟(東本願寺)」となりました。
親鸞の廟堂「大谷廟堂」から発展
鎌倉中期の1263年(弘長2年)、浄土真宗を開いた親鸞(しんらん 1173~1263)が90歳で没すると、京都東山の鳥辺野(とりべの)の北にある大谷に石塔を建て、遺骨が納められます。
しかし墓所は極めて簡素なものであったため、1272年(文永9年)、親鸞の末娘・覚信尼(かくしんに 1224-83)が大谷の西、吉水(よしみず)の北(現在の知恩院付近)に関東の門弟の協力を得て六角の廟堂(御影堂)を建て、親鸞の影像を安置し遺骨を移しました。
これが「大谷廟堂(おおたにびょうどう)」で、本願寺のはじまりとされています。
1321年(元亨元年)頃、覚信尼の孫にあたる第3代・覚如(かくにょ 1270-1351)のときに「本願寺」と公称するように(大谷本願寺)。
また寺院化の流れの中で、本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)が並存するようになりました。
この経緯により本願寺派では、親鸞の御真影を安置する廟堂(現在の御影堂)と、本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)の両堂形式が採られています。
第8代・蓮如により大教団に発展(中興の祖)
室町中期の1457年(長禄元年)、43歳で法灯を継承した第8代・蓮如(れんにょ 1415-99)の時代にその勢力は急速に拡大し、近江をはじめとする近畿地方や東海、北陸ににまで及んだといいます。
しかしこれが比叡山を刺激し、1465年(寛正6年)に「大谷本願寺」は比叡山の衆徒によって破却されることとなり、その後は北陸の越前(福井県)吉崎(よしざき)や河内(大阪府)出口(でぐち)など各地を転々とします。
1478年(文明10年)に京都山科にて再興を果たした後は再び寺勢は増し、1480年(文明12年)に御影堂を再建し、次いで阿弥陀堂などの諸堂も整えられ、その教えは北海道から九州まで全国に拡大していきます(山科本願寺)。
大阪・石山本願寺と信長との対立
蓮如は1499年(明応8年)に85歳で山科本願寺にて没し、その後1532年(天文元年)に「山科本願寺」が六角定頼や日蓮衆徒により焼き払われると、蓮如が現在の大阪城付近に創建した大坂・石山御坊(いしやまごぼう)に寺基を移し、両堂や寺内町を整備が整備されて大いに発展します(石山本願寺)。
しかし1570年(元亀元年)、11代・顕如(けんにょ 1543-92)の時代に天下統一を目指す織田信長との「石山合戦」が始まります。
雑賀衆や各地の一揆勢とも協力し、「石山本願寺」を本拠に11年に及び激しく抵抗を見せますが、1580年(天正8年)、遂に信長と和議を結ぶこととなり石山から退去を余儀なくされます。
その後は紀伊(和歌山)の鷺森(さぎのもり)、和泉(大阪)貝塚の願泉寺を経て、「本能寺の変」の後、信長の後を継いだ豊臣秀吉の寺地寄進を受けて大坂天満と各地を転々としました。
秀吉による現在地への移転と東西分裂
1591年(天正19年)、豊臣秀吉の京都市街経営計画に基づき京都に寺地を寄進され、六条から七条堀川の現在地に移転。
翌年には阿弥陀堂・御影堂の両堂も完成しています。
同年顕如は50歳で没し、長男・教如(きょうにょ 1558-1614)が跡を継ぎますが、三男・准如(じゅんにょ 1577-1631)に宛てた譲状があったため、教如は隠退することに。
これには石山本願寺の退去に際し、講和を受け容れた顕如ら「退去派」と徹底抗戦を唱えた教如ら「籠城派」との対立が背景にあったといわれています。
そして1598年(慶長3年)に秀吉が没し、更に1600年(慶長5年)の天下分け目の「関ヶ原の戦い」で徳川家康が勝利して天下を手中に収めると、家康は本願寺の勢力を削ぐため、この分裂状態を上手く利用。
1602年(慶長7年)、後陽成天皇の勅許を背景に、秀吉の命により本願寺内北方に隠居させられていた教如に対し本願寺のすぐ東、烏丸六条~烏丸七条の間を寺地として寄進し、ここに本願寺11世・顕如の長子・教如を12世門主とする「真宗大谷派本願寺(東本願寺)」が誕生し、立地関係から西と東という通称が付けられるようになりました(東西本願寺のはじまり)。
諸堂の整備と年中行事
1603年(慶長8年)には上野国(現在の群馬県前橋市)にある妙安寺(みょうあんじから宗祖・親鸞聖人の自作と伝えられる御真影を迎え入れ、同年に「阿弥陀堂」、翌1604年(慶長9年)には「御影堂」を建立。
その後伽藍は4度にわたって焼失の憂き目に遭っていますが、その都度再建され、現在の建物は幕末1864年(元治元年)の「禁門の変」の兵火によって京都市街を火の海にした「どんどん焼け」と呼ばれる大火災で焼失した後、1895年(明治28年)に再建されたものです。
当派の伽藍の中心をなすのは宗祖・親鸞の木像(御真影)を安置する「御影堂」と、本尊である阿弥陀如来を安置する「阿弥陀堂」の両堂ですが、このうち「御影堂」は、927畳敷きの大広間を持つ世界最大級の木造建築として知られ、建造の際に女性信者らが自らの髪を集めて綱に編んで寄進した資材運搬用の「毛綱」は、今も一部が廊下に残るといいます。
また御影堂の正面にある「御影堂門」は、京都三大門の一つに数えられ、両堂と同じく1864年の「どんど焼け」で焼失しましたが、1911年(明治44年)に再建されています。
その他に、「視聴覚ホール」や展示ギャラリーを併設している「参拝接待所」、研修宿泊施設「同朋会館」や教化センター「しんらん交流館」などの施設があるほか、飛地境内としては境内西側に隣接し国の名勝に指定され、四季折々の草花が楽しめる池泉回遊式の庭園「渉成園(枳殻邸)」や、祇園・八坂神社にほど近い位置にあり、宗祖・親鸞聖人の墓所であるとともに全国各地の門徒の遺骨が納められている「大谷祖廟」などが知られています。
東本願寺で有名な行事としては、毎年4月1~3日に開催される宗祖・親鸞聖人の誕生を慶ぶ御誕生会などを中心とする「春の法要」のほか、4~5月にかけて開催される本願寺第8世で中興の祖と称される蓮如上人の北陸での教化の苦労と徳を偲んで福井県あわら市の吉崎で行われる法要にあわせて、京都の東本願寺から吉崎東別院の間を蓮如の影像を奉じて徒歩で往復する「蓮如上人御影道中」、宗祖親鸞の祥月命日である11月28日までの1週間に勤められる真宗門徒にとって一年の中で最も大切な仏事で、親鸞が越後へ流罪になる際に荒波に揺れる船の中で一心に念仏を唱えたことに由来するという僧侶が上体を揺らして念仏や和讃を唱える「坂東曲(ばんどうぶし)」が印象的な「報恩講(ほうおんこう)」、そして西本願寺のものとともに京都の年の瀬の恒例行事で、御影堂と阿弥陀堂にたまった1年間のほこりを払って大掃除を行う「お煤払い」などが知られています。
「お東騒動」による再分裂
ちなみに親鸞を宗祖とする浄土真宗の本山・本願寺は1602年(慶長7年)には関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康の宗教政策により東西に分立しましたが、東本願寺は戦後の昭和期に起きた「お東騒動(おひがしそうどう)」と呼ばれる事件をきっかけに更に4つに分かれています。
「お東騒動」とは、真宗大谷派東本願寺が、教団の運営は何人の専横をも許さず本来的に同信の門徒・同朋の総意によるべきであるという「同朋会運動」を推進する改革派と、宗祖・親鸞の血筋を引き法主・管長・本願寺住職の3つの地位を一元的に継承(世襲)する大谷家とそれを擁護する保守派との宗門内の対立から、同宗派が4派に分裂するまでに至った事件。
事の発端は大谷家第24代・大谷光暢(闡如)の時代の1969年(昭和44年)、光暢(闡如)が内局に事前承諾を得ずに法主・管長・本願寺住職のうち管長職のみを長男の光紹新門に譲ると発表した「開申事件」が発生。
これをきっかけとして改革派は、宗派の運営を選挙により選出される議員の構成する宗派の議会で行う「議会制」や、従来の「法主」「管長」「本願寺住職」にかわり、門徒・同朋を代表して仏祖崇敬の任にあたる象徴的地位として「門首」を置く「象徴門首制」を採用、更に「宗本一体」の考えから1987年(昭和62年)12月、包括・被包括の関係にあった宗教法人本願寺と真宗大谷派との合併がなされ、宗教法人としての本願寺を法的に解散し、宗教法人「真宗大谷派」に一体化され、東本願寺の正式名称も「真宗本廟」と改められました。
これに対し保守派は教学の構築・教団の運営は従来通り伝統的権威と権限とを有する法主を中心になされるべきとの姿勢から、大谷家光暢(闡如)の長男を中心とした勢力が真宗大谷派を離脱することとなり、1981年(昭和56年)6月15日に、長男が住職を務めていた東京別院東京本願寺(東京都台東区)を大谷派から分離独立させ、1988年(昭和63年)2月29日には同寺を中心にこれに賛同する末寺・門徒をまとめ「浄土真宗東本願寺派」が結成されました。
そしてこれとは別に光暢(闡如)の次男、および光暢(闡如)の妻と四男を中心とした2つの勢力が同じく教団のあり方をめぐる意見の対立から真宗大谷派を離脱し、下記の4つの派に分派することとなります。
[1] 真宗大谷派 真宗本廟(東本願寺)(京都市下京区)(光暢の三男・大谷暢顯(淨如)、末寺数約9,000)
[2] 浄土真宗東本願寺派 東本願寺(東京都台東区)(光暢の長男・大谷光紹(興如)、末寺数300~400)
[3] 浄土真宗大谷本願寺派(一般財団法人本願寺文化興隆財団) 本願寺(東本願寺)(京都市伏見区下鳥羽(事実上の本山は山科区の東山浄苑))(光暢の次男・大谷暢順(經如))
[4] 東本願寺嫡流 本願寺(嵯峨本願寺)(京都市右京区嵯峨鳥居本)(光暢の四男・大谷暢道(後に大谷光道に改称)(秀如))