京都府与謝郡与謝野町岩滝板列、京都府北部の与謝野町の北側、阿蘇海を挟んで天橋立西側の岩滝地区山裾の板列に鎮座する神社。
祭神の「稲廼売神(いなのめのかみ)」は豊受大神の別名。
創建の詳しい経緯は不明なものの相当古い歴史を有し、同じ与謝野町岩滝地区の東方の男山にある板列八幡神社とともに927年(延長5年)にまとめられた当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である「延喜式神名帳」における丹後國与謝郡「板列神社」の論社の一つとされています。
その後、中世に社運が衰退、更に戦国時代の永禄年間(1558-69)には、地続きで別当寺であった龍泉寺が一色家の祈願所であるという理由で、細川氏によってともに焼き打ちに遭いますが、その後も村民が焼跡に小祠を建てて祭事を続けたといいます。
江戸後期の1826年(文政9年)には再度の罹災でわずかに残存していた古記や社伝などもすべて焼失していますが、江戸時代までは稲荷社、その後は板列稲荷神社と称して1873年(明治6年)2月には村社、1910年(明治43年)4月には神饌幣帛料供進社に指定、現在の社殿は1874年(明治7年)に仮建築されたものといいます。
与謝野町では加悦谷祭や三河内曳山祭など、4月下旬から5月初旬のGW頃に多くの神社が春の例祭を行いますが、岩滝地区では板列八幡神社(男山区)、板列稲荷神社(岩滝連合区)、水無月神社(弓木区)、そして木積神社(弓木区・石田区)の4社が5月1日に例祭を行い総称して「岩滝祭」と呼ばれています。
岩滝連合区(東町・立町・薮後・浜町)を氏子区域に持つ板列稲荷神社の祭典は神輿渡御と神楽を中心とする行事で、祭礼の後、神輿出立前に奉納される「岩滝の獅子神楽(御宝楽の舞)」は江戸後期の文政年間(1818-31)に伊勢大神楽の一社であった弥作太夫という人物が伝承したと伝わる郷土芸能で、丹後の神楽のはじめともいわれ「与謝野町指定無形民俗文化財」となっています。
そして神輿が与謝野町役場まで巡行すると、祭礼の後には子ども神楽が奉納され、更に岩滝連合区4区を獅子舞が巡行します。
また神社のすぐそばに整備された「板列公園」は桜の名所として有名で、道を挟んで若木群と老木群の桜が混ざって咲き誇る様子は見事で、近隣から多くの見物客が訪れるといいます。
更に神社脇の遊歩道を上がっていった先にある「板列展望台」は、阿蘇海に横たわる天橋立の一字観を望むことができる絶好のパノラマポイントとなっており「与謝野自然風景10選」にも選ばれています。