京都府与謝郡与謝野町男山、京都府北部の与謝野町の北側、阿蘇海を挟んで天橋立西側の岩滝地区に鎮座する神社で、男山区民の守り神。
祭神として誉田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)、息長足姫命(おきながらたらしひめのみこと)、稲逎売命(いなそめのみこと)を祀る八幡宮の一社。
「与謝郡誌」によれば、当社は平安中期、真言宗の僧で京都の山科小野に牛皮山曼荼羅寺(後の随心院)を建立し真言宗小野流を開いたとされる仁海(にんがい 951-1046)(小野僧正)によって創建されたと伝えられており、古くから一の宮、国分寺、八幡宮を一国三分と称し、当社は丹後におけるそのゆかりの宮であると考えられています。
この点、石清水文書に「板列の庄云々」という文字があるのを見れば、当時この付近一帯は石清水八幡宮(京都府八幡市)の所領の荘園であったかと思われ、その関係上で八幡宮が建立されたとも推察されています。
また「天橋記」では「真言宗の小野僧正仁海は与謝郡板列の出身とあり、その由縁でこの地に八幡宮を勧請した」とも伝えられています。
以上のような理由から927年(延長5年)にまとめられた当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である「延喜式神名帳」における丹後國与謝郡の延喜式内社「板列神社」はこの八幡宮であるとし、当社の西方、与謝野町岩滝板列に鎮座する板列稲荷神社とともに論社の一つとされていて、その板列神社が元々は男山の西方「ガンマク(加舞満久)」の森に鎮座していたものを、後に社殿荒廃などの理由で八幡宮が合併し、それ以降「板列八幡神社」と呼ばれるようになったともいわれています。
成相寺の古文書によれば「八幡宮縁起一巻、八幡宮の宝前にあり」と記されていますが、残念ながら今日はそれがなく、創建および沿革などを知ることはできませんが、丹後国与謝郡田数帳を見れば八幡領なるもの四十町歩に及び、また近世に至っては城主、藩主などの崇敬厚く、特に宮津藩主・本庄氏は度々参詣し、寄進等を行ったといいます。
現在の社殿は1834年(天保5年)に再建されたもので、神明造、檜皮葺の本殿と拝殿、幣殿からなり、その他に境内社として高良神社、稲荷神社、瑞若宮神社、高岡神社、三田神社などが祀られています。
文化財としては通常非公開なものの平安時代の「木造女神坐像二躯」があり、その一体は高さ41.8cm、もう一体は40.8cmで、高雅、端麗な刀法と剥落した胡粉色の衣紋の一面に薄く見える図の模様は明らかに藤原時代の特徴が窺われ、1925年(大正14年)に国宝、戦後の1950年(昭和25年)に国の重要文化財に指定されています。
そしてその他にも鬼神面(追儺面)、狛犬・神鏡などの文化財も所蔵しているといいます。
国道178号線の男山交差点から府道53号を北へ上がり次の交差点を右に曲がって200mほど進んだ先にある男山公民館の前に南面して鎮座し、深い森に覆われた約240段あるという参道の石段を上がった先に境内があり、高台の境内からは阿蘇海を見渡す眺望が広がり、海に横たわる日本三景・天橋立の一字観の見事な景色を楽しむこともでき「与謝野自然風景10選」にも選ばれています。
行事としては与謝野町では加悦谷祭や三河内曳山祭など、4月下旬から5月初旬のGW頃に多くの神社が春の例祭を行いますが、岩滝地区では板列八幡神社(男山区)、板列稲荷神社(岩滝連合区)、水無月神社(弓木区)、そして木積神社(弓木区・石田区)の4社が5月1日に例祭を行い総称して「岩滝祭」と呼ばれています。
男山区を氏子区域に持つ板列八幡神社の祭典は神輿渡御を中心とする行事で、「弓的の神事」の後、約200人で神輿を担ぎ、八幡神社の階段を降りて区内全域を巡行し、子ども会による子ども神輿も巡行されるといいます。
この点「弓的の神事」を合図にするのは板列八幡神社だけの特徴で、約30m離れた的を射抜くことができれば、御神体を神輿に納めることができ、祭りの見せ場の一つとなっています。