京都府京丹後市網野町磯、平安末期に白拍子として名を馳せ源義経(みなもとのよしつね 1159-1189)の愛妾となった静御前(しずかごぜん 生没年不詳)の生誕の地に創建され、静御前を主祭神として祀る神社。
鎌倉時代に創建された後、江戸後期の1782年(天明2年)に火災で焼失。
その後、元の場所より約200mほど西にある磯地区を見下ろす高台の上に再建されて現在に至っており、本殿には作者不明の静御前の木像が祀られています。
静は幼名を静尾といい、父・磯野善次は「磯の衆」と呼ばれた海士の一族でしたが、7歳で亡くなったため、母・磯禅師(いそのぜんじ)に連れられて京の都へと上ることとなります。ちなみに磯禅師の磯はこの地の名に由来しているといいます。
母・磯禅師は男装で歌いながら舞う白拍子(しらびょうし)の始まりともいわれていて、白拍子として有名となった母親に育てられた静もまた都で指折りの白拍子へと成長していったといいます。
そして「義経記」によれば1182年(寿永元年)7月、日照りが続いたため第77代・後白河法皇(ごしらかわほうおう 1127-92)は弘法大師空海以来の祈雨の霊場として知られた神泉苑にて100人の僧に雨乞いの読経をさせますが、効果がなかったことから今度は容顔美麗な100人の白拍子に舞を舞わせて雨を祈願させることとなります。
99人まで効果はありませんでしたが、静が舞を披露するとたちまち黒雲が現れて3日間大雨が降り続いたといい、法皇は感激して「日本一」の言葉を賜るとともに、その時の舞姿を義経に見初められてその側室となります。
しかし幸せな時間は長続きせず、「吾妻鏡」によれば1185年(元暦2年)に義経が「壇ノ浦の戦い」にて平家を滅亡に追いやると、直後に兄・源頼朝と対立して討伐を受けることとなり、京都を追われて都落ちした義経一行とともに西国へ向かう途中、同年11月に義経が女人禁制の吉野山に身を隠す前に二人は別れることとなります。
その後、静御前は帰京する途中で道に迷ったところを僧兵に捕えられ、母・磯禅師とともに鎌倉へと送られ、鶴岡八幡宮にて頼朝とその妻・北条政子の前で舞を披露することに。
ところがこの時に静御前は
「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
と、義経へのひたむきな想いを込めた歌を詠いながら舞を披露。
頼朝を激怒させますが、その決意に胸を打たれた北条政子が自分が静御前の立場であってもあの様に歌うであろうと取り成したため難を逃れたといいます。
そしてこの時静御前は義経の子を身ごもっていましたが、頼朝は生まれてくる子が女なら助けるが男なら殺すように命じ、不運にも男児であったため、生まれた直後に鎌倉の由比が浜に流されて殺されてしまうという、更なる悲劇に見舞われます。
その後の静御前の消息や終焉の地についてははっきりしておらず、全国各地に伝承が残っていますが、当地に残された伝承によれば、疲れ果てた心身を休めるため、生まれ故郷の磯へと帰ってきた静は、眺望の良い三つ塚法城が成に草庵を結び、義経の無事と、由比が浜で殺された愛児の冥福を祈りつつ花月を友として暮らしたとも、また一説には草庵は静の出生地の屋敷跡で、母娘共々余生を送ったともいわれていて、今もこの屋敷跡下の海岸は「尼さんの下」と呼ばれているといいます。
ちなみに義経が磯の惣太という船持ちの豪族に宛てた手紙が残っていたという江戸時代の記録も残っているといいますが、残念なことにこの手紙や多くの遺品は1782年(天明2年)の大火で神社とともに焼失しており、現存していないといいます。
また静御前の生家も現在は残っていませんが、その跡地には「静御前の生誕の地」として記念碑や説明版が建てられているほか、その他にも神社のやや西側には能舞台を模した朱塗りの欄干が印象的な「展望台」が設置されていて、日本海の海岸線を一望できる絶景が楽しめるほか、義経が船をつけたといわれる「入艘の浜」や「沖の飛び岩」などの史跡なども遠くから眺めることができます。
そして現在は小野小町や細川ガラシャや乙姫、羽衣天女など、京丹後に語り継がれる7人の美女にまつわる伝説の地をめぐる「京丹後七姫めぐり」の一つとしても知られています。