与謝野町との境にある府内最大高さ5.3mの立像の石仏
京丹後市大宮町、与謝野町との境にかかる平地峠にある平智山地蔵院の境内に鎮座。
高さ5.3mの地蔵菩薩像で立像の石仏としては府内最大、右の頬に染みがあり「あざとり地蔵」の別名。転じて交通安全や安産にもご利益。
11/23冬支度に藁で編んだ頭巾と蓑を着せる「みの着せ行事」は丹後の初冬の風物詩
平地地蔵(地蔵院)のみどころ (Point in Check)
「平地地蔵」は京都府京丹後市大宮町上常吉、京丹後市大宮町と与謝郡与謝野町との境にかかる平地峠にある曹洞宗寺院・常林寺の管理する平智山地蔵院の境内に鎮座する巨大な石仏。名前の由来は平地峠から。
建立されたのは江戸後期のことで、寺記によれば常林寺8世・勝者和尚により1833年(天保4年)3月に勧請奉祀されたと記されているといいます。
1822年(文政5年)の冬のこと、この地を治めていた宮津藩の重税などの圧政に耐えかねた農民たちが決起して「文政丹後一揆」が起こりますが、その責めを受けて一揆の中心人物だった常吉村出身の吉田新兵衛が捕えられ処刑されてしまいます。
そして一揆から11年後の1833年(天保4年)、新兵衛らの霊を慰めるため、村から集められた浄財によって像が建立されたと伝えられています。
この点建立にあたっては別の言い伝えも残っていて、1832年(天保3年)頃、この地方に山賊が出没し通行人や住民を苦しめていたため、当時の常林寺住職・月海龍吟が多くの信者から浄財を集めるとともに、近くの谷より仏相をそなえた石を見つけ、鱒留の石工・松助に依頼して蓮華座の上に身丈一丈六尺(約5m)の地蔵尊を建立したのがはじまりとされ、以来その功徳により山賊は残らず退散したとする説もありますが、これは当時一揆の首謀者は死罪に問われ、顕彰はもちろんのこと供養をすることも許されなかったことから、表向きは旅人の通行の安全祈願と称して造立されたと現在では考えられています。
石仏は高さ5.3mの地蔵菩薩像で、立像の石仏としては府内最大で、京丹後市指定文化財にも指定。
また右の頬に見られる染みから「あざとり地蔵」の別名を持ち、転じて交通安全や安産にもご利益があるといわれています。
行事としては毎年11月23日に冬支度として平地地蔵に総重量60㎏あるといわれる藁で編んだ頭巾と蓑を、世話方の人々がはしごや竹竿を使って着せる「みの着せ行事」が有名で、丹後の初冬の風物詩となっています。