京都府亀岡市大井町並河、JR嵯峨野線・並河駅の東200m、市立亀岡小学校の東隣に東面して鎮座する神社。
式内社。旧社格は郷社。
奈良時代初期の710年(和銅3年)、元明天王の勅命により創建。
その後、戦国時代の1576年(天正4年)に明智光秀の丹波平定に際し兵火で焼失した後、1584年(天正12年)に羽柴秀吉が片桐且元を造営奉行として再建。片桐且元は「正一位大井大明神」の扁額を自著し奉納したといわれています。
その後、1873年(明治6年)に近代社格制度において郷社と定められ、1877年(明治10年)には平安中期の927年(延長5年)にまとめられた当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧「延喜式神名帳」における延喜式内社「丹波国桑田郡 大井神社」に比定され、更に1907年(明治40年)には神饌幣帛料供進神社にも指定されています。
ちなみに豊臣秀吉によって再興された本殿は、老朽化のため2010年(平成22年)の鎮座1300年を迎えるにあたっての記念事業として2009年(平成21年)に全面修復されたものです。
鎮座地については大堰川対岸の亀岡市河原林町勝林島に鎮座した後に現在地に移転しており、旧地には現在は境外社として「大井神社」が建てられています。
祭神は御井神(木俣神)、月読神、市杵島姫命。
この点、亀岡盆地は古くは「丹波」の語源にもなったともいわれる「丹の湖(にのうみ)」と呼ばれる赤い泥湖でしたが、大変革の時に現在の当社の神池と伝わる湖の中心点が乾き残り、干ばつでも涸れない「大いなる井戸」となったことから、一帯は「大井」の地名の由来だといい、その大井の水に万一のことがあれば一帯が瞬時にして以前のような湖になるのを憂い「木股命(御井神)」を当社に勧請して守護を祈願するようになったと伝わっています。
また伝説によれば御井神(木俣神)が市杵島姫命と洛西の松尾大社から神使の亀に乗って大堰川を遡上したものの、八畳岩の付近から水の勢いが強くなり保津の急流を越えられなかったため、鯉に乗りかえて亀岡のこの地に上陸し鎮座したといわれていて、そのため当社は別名「鯉明神」とも呼ばれていて、大井町の氏子たちは鯉を尊び、食用はもちろんのこと、捕えることも禁じており、5月5日の端午の節句で鯉のぼりもあげてはいけないという風習をを現在も守り続けているといいます。
10月16日の「例祭・神幸祭」では、神輿渡御のほか、古く866年(貞観8年)に始まったという勇壮な「競馬(くらべうま)」が当社の馬場で武者姿の氏子により奉納されます。
また毎年8月19日に行われる「花祭」では、大井、ひえ田野町の氏子6地区により京都府指定無形民俗文化財に指定され華道の原型とも言われる松を松葉や苔で彩った「立花(りっか)」の奉納が行われ、地元民のみならず多くの参拝者が訪れるといいます。