京都府精華町北稲八間北垣外、京都府南端に位置する近年は学研都市として知られる精華町のほぼ中央、北稲八間(きたいなやづま)地区に鎮座する神社で、同地区の氏神。
創建の時期については宗教法人としての申請書には鎌倉後期の1317年(文保元年)巳歳2月18日に男山の石清水八幡宮(京都府八幡市)から勧請して祀ったのがはじまりと記載されていて、246歳まで生きたという伝説を持つ武内宿禰(たけのうちのすくね)が祀られていることから「長寿・長生き」の御利益があるといわれています。
その一方で次のような言い伝えも残されていて、第44代・元正天皇(げんしょうてんのう 680-748)の頃、稲蜂間光延という連(むらじ)がこの地に城を築いて近郊を支配したという伝説があり、その光延が718年(養老2年)、夢のお告げにより領土が安らかに治まり、五穀が豊かに実るようにと、日頃から尊崇する男山八幡宮の様式に習って武内宿禰を祀ったことに起源しているともいいます。
そしてその年は大変な豊作となったことから、その喜びを初貢としてお供えするとともに、村中の家や蔵も米で満ちたと伝えられています。
その後、室町時代の1468年(文明元年)に「応仁の乱」の兵火によって神殿が炎上し、20年余り仮殿で祀られた後、1490年(延徳2年)に稲蜂間城主・高橋三河守正喬という人物が、一族と共に旧地に神殿を再建したと伝えられています。
現在の「本殿」は一間社流造、檜皮葺で、江戸前期の建築と考えられますが、組物・木鼻・蟇股・妻飾などの細部の意匠には鎌倉・室町・桃山時代の古い伝統的な様式を残しているといいます。
また2004年(平成16年)には脇障子の壁画修復工事によって、調査で発見された建築当初の舞楽図、力士図、獅子図が極彩色で復元されています。
この点、本殿は造営の記録である棟札(むなふだ)により江戸前期の1664年に建てられたことが分かっていますが、この棟札を含め、当社には鎌倉時代の1318年(文保2年)から江戸時代の代々の棟札21枚がほぼ完全に残されているといい、北稲八間の氏子の先祖たちの賢明さを示しているものであると同時に、同地域の村落組織の変遷が分かる貴重な史料でもあり、また棟札がこのように完全に保存されている例は京都府でもあまり例はなく、21枚のうち16枚が本殿とともに1983年(昭和58年)7月19日に「京都府登録有形文化財」とされています。
その他にも当社の境内一帯「鎮守の森」が1983年(昭和58年)4月15日に「武内神社文化財環境保全地区」として「京都府文化財環境保全地区」に定められています。
行事としては毎年11月2・3日の「秋祭り」が知られていて、御神楽の奉納や、子供みこし、ちびっこ相撲などが行われ、夜店も出て賑わいを見せます。