京都市左京区岩倉木野町、叡山木野駅より北西へ徒歩すぐ、京都精華大学の東側に位置し、岩倉地区の一部を構成する木野の集落を奥へといった突き当たりに山に囲まれた集落を見守るような形で南面して鎮座する神社。
この点「岩倉」は京都市の中心部より北東、北方に北山から比叡山、南方に宝ヶ池のある松ヶ崎丘陵に囲まれた小さな盆地である岩倉盆地を中心とする地域で、現在は左京区の一地域となっていますが、山城国愛宕郡の岩倉村・木野村・中村・長谷村・幡枝村・花園村の各村が1868年(明治元年)に旧京都府に編入された後、1872年(明治5年)に木野村の岩倉村への編入を経て5か村となり、1889年(明治22年)の町村制施行によって5か村が統合されて愛宕郡「岩倉村」が発足し、旧村名を継承した5つの大字が設置され、戦後に入り京都市に編入された地域です。
この岩倉の地から京都へと向かう主要な道路としては、古くは岩倉盆地の中心部から狐坂を下って松ヶ崎へと抜けていく「八丁街道」と、幡枝から盆地の西側を抜けていく2つのルートがありましたが、いずれも道幅が狭く急な傾斜の坂道があったため、行き来は大変な困難を伴い、そのため明治末期に至るまで京都市中心部からは遠く離れた、水田の広がる静かで落ち着いた雰囲気の農村地帯でした。
しかし1895年(明治28年)に平安建都1100年を記念して修学院・上高野から村の東側を通り福井県の越前・若狭地方へと続いていく京街道が拡張・改修されると、京街道を通り盆地東部の三宅八幡と出町柳を結ぶ乗合馬車や1922年(大正11年)にあh洛北自動車(現在の京都バス)のバスが運行を開始され、また1928年(昭和3年)には鞍馬電気鉄道(現在の叡山電鉄鞍馬線)が開通して村内に岩倉・木野の2駅が開業し、岩倉と京都市内が交通機関で結ばれるようになり、更には1925年(大正14年)頃には村の中心部を通る岩倉街道(府道105号岩倉山端線)が拡幅されてバス路線が延伸されるなど、京都市中心部へのアクセスが次第に向上。
これによって京都市内への通勤・通学が容易になると、南東の花園地区から次第に住宅化が進んでいき、第二次世界大戦後には更なる急速な開発が進んで京都市との関係が強まっていくと、これを背景として次第に合併の気運が高まり、1949年(昭和24年)に京都市左京区への編入合併が決定。現在は「左京区岩倉」を町名に冠する32町で構成される京都市左京区の一地区となっています。
そして駅の由来となっている「木野」はその岩倉の北西部に位置する旧木野村、現在の左京区岩倉木野町に相当し、「土師器皿(かわらけ)」づくりの里として知られた地区です。
そもそも「岩倉」の地は古墳時代の末期に須恵器の生産が始まって以来、須恵器や瓦の生産地として知られた場所で、岩倉西部、木野の西隣の幡枝地区などでは早い時期から集落が形成され、平安時代には官営の瓦窯としての栗栖野瓦窯や小野瓦窯が設けられて瓦の生産が行われており、伝統的に窯業生産の歴史を有する地域でした。
そして後に京都の嵯峨天龍寺近くに住む野宮神社・愛宕神社の神官で、朝廷や幕府に土器を納めていた土器師一族が、土器の原材料である粘土を求めて戦国時代の1572年(元亀3年)に嵯峨から移り住んだ場所が、この木野地区だったといいます。
かわらけは宮中や社寺での祭祀の供え物の器として嵯峨天皇の時代から製造が始められたといい、岩倉の地に移住してからも製造は続き、昭和30年頃まで神官以外の生業として製造が続けられていたそうですが、現在は地域の伝統工芸として製法技法を後世に伝えるため「木野かわらけ保存会」が結成され、かわらけ親子教室なども開かれてその保存が図られているとのことです。
当社は嵯峨から木野地区に移住したという嵯峨の愛宕神社・野宮神社で神職を勤めていた木野の土器師らが、文禄年間(1592-1595)の1600年頃に愛宕山より愛宕神社、麓の嵯峨より野宮神社の神を勧請し、木野山の麓に新宮を造営して創建されたもの。
境内には愛宕本社、奥社、野々宮、皇大神宮、稲荷社、八幡社の6つの祭神が祀られているといいますが、このうち愛宕神社は全国に約900あるという愛宕神社の本社であり、古くから防火・火除けの神として京都の人々にもおなじみの神様で、また野々宮社や皇太神宮には天照大神やその子孫が祀られているといい、朝廷に仕えていた者が多い木野に相応しい神様が祀られているといえます。
普段はひっそりと静かな境内ですが、毎年10月23日には数えで16歳になった少年が大人の仲間入りをするための儀式である「烏帽子着(木野の元服式)」が行われ、この行事は京都郊外の村落に早くから展開した習俗を現在にまで伝え残している点で大変貴重であり「木野愛宕神社の烏帽子着(えぼしぎ)」として京都市無形民俗文化財に指定されています。
10月23日は木野愛宕神社祭礼の日でもあり、まず夜の20時より燈明と提灯だけの明かりの下で厳かに神事が執り行われ、その後、茂山社中の狂言師による奉納舞が披露されます。
そして神事が終わると新たに大人の仲間入りを果たすこととなる16才の少年たちは、裃(かみしも)の正装で宮座の杯事(さかずきごと)の響応役を勤めることとなり、大人たちに一人ずつかわらけの盃や肴を配りお酒を酌し、その答礼として大人たちは声を合わせて祝いの謡曲を歌います。
また神前に供される特殊神饌も壮観で、前日から用意した赤飯を編んだ藁で包む「ゆり膳」、柿・栗・鶏頭(けいとう)・菊などで美しく盛られる「花膳(はなぜん)」、そしてマツタケ、青菜、ショウガなど季節の野菜を飾る一の膳・二の膳と合計31ものお供えが並べられます。