京都市北区小山北上総町、京都市の中心を南北に通る烏丸通と北部を東西に通る北大路通の交差する「烏丸北大路」交差点の北側の地下にある京都市営地下鉄烏丸線の駅。
この点、駅名の由来となっている「北大路通」は京都市北区・左京区を通る京都市の主要な東西の通りの一つで、東は白川通から西は西大路通までを結ぶ洛北を東西に貫く幹線道路。
「北大路」の起源は平安京が造られた当初の都の北限である「一条大路」と思われますが、一条大路に相当する現在の「一条通」は現在の北大路通からは南へ少し下がった今出川通のやや南を通るに位置あり、直接の関係はないと思われます。
このように現在の「北大路通」はかつての平安京の北限よりも北を走る通りで、第二次世界大戦前の都市計画により整備された道路です。
そもそも京都では明治維新による天皇の東京行幸に伴って衰退の一途を辿る京都を復興させるため、都市基盤の整備や勧業政策など様々な近代化政策が実施されました。
更に明治30年代に入ると、西郷隆盛の長男でもあった第2代京都市長・西郷菊次郎は積極的な都市改造の必要を訴え、
①水と電力の需要増大に対応しうる「第二琵琶湖疏水」の開削
②その第2疏水で得られる水を用いた「上水道」の整備
③大量輸送機関である「市電の開通」と「幹線道路の拡幅」
という「京都市三大事業」を提唱し、1906年(明治39年)に市会で可決されると大正初期にかけてこれらの事業が推し進められることとなり、このうちの③の事業計画に従って市電を敷設するために、丸太町通・四条通、烏丸通・今出川通・東山通(東大路通)・七条通・千本通・大宮通が拡幅され、1913年(大正2年)3月には道路拡張及び市営電気鉄道敷設工事は完了し、道幅の狭かった京都の街は広軌の市電や自動車が通れる近代都市へと再生されました。
その後1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発すると、連合国の一員でありながら本土が戦場の圏外となった日本は連合国側への軍需品などの輸出が急増したことで空前の好景気を迎えることとなり、資本主義経済の急速な発展とともに産業や人口の都市部への集中が顕著となり、都市の拡大に対応するための都市計画の法定化の要望が高まり、1919年(大正8年)には「旧都市計画法」が制定。
そして1922年(大正11年)より初の都市計画事業としてまず都市計画道路(幹線街路)15路線の建設が決定し、このうち「北大路通」は西大路通とともに外郭循環道路の建設と市街地の整備を目的として1926年(大正15年)9月に内閣の許可を得て事業が実施され、1937年(昭和12年)頃までには北大路通・西大路通・九条通・東大路通の市内外周道路の大部分が完成。
その後1931年(昭和6年)4月には伏見市など周辺の1市26町村が編入され、この編入市域にもおいても都市計画事業を進められ、それまでは小さなエリアであった京都市の市域は拡大し「大京都」とも呼ばれる今日の京都の景観が形作られていくことになります。
このように「北大路通」は京都の道路としては昭和の始めごろにできた比較的新しい道路で、洛北を東西に貫く幹線道路であるのみならず、京都市電が敷設される際に市の外郭循環道路を構成する通りとして整備されたことから同時期に整備された西の「西大路通」とともに「北大路通」の名称が付けられたようです。
この点、外郭循環道路としては東には「東大路通」、そして南には「九条通」がありますが、この2つは外郭循環道路として整備される以前から元々存在していた通りで、このうち平安京の南限であった「九条大路」に相当する九条通は「南大路通」とは呼ばれることはなくそのまま「九条通」が使われ、もう一方の東大路通は元々は「東山通」として存在していたものを「東大路通」と呼ぶようになりましたが、現在でも旧名で呼ぶ人も多く、また交差点の名称にも「東山三条」「東山五条」と以前の通り名がそのまま残っています。
そして周辺地域はこの北大路通の外郭循環道路の建設と市街地の整備を目的として昭和初期に土地区画整理事業が進められた際に住宅市街地化されたエリアで、かつては東大路通から西大路通にかけて京都市電の北大路線が敷設され、とりわけ当駅のある「烏丸北大路」の交差点には烏丸車庫も置かれ「烏丸車庫前」の電停が設置されて京都市電の烏丸線との乗り換えが可能なターミナル駅として、京都市北部の交通の拠点でした。
そもそも京都では明治維新による天皇の東京行幸に伴って衰退の一途を辿る京都を復興させるため、都市基盤の整備や勧業政策など様々な近代化政策が実施されましたが、その中でも琵琶湖疏水はその目玉ともいえるプロジェクトで、その水力を利用した水力発電で生み出される電力を元に京都で日本初の電車が開業することとなります。
1895年(明治28年)に民間企業である「京都電気鉄道」により第1期区間が開業した後、1912年(明治45年)には京都市によって市営の路線が開設され、更に1918年(大正7年)には京都電気鉄道が京都市へと買収されて全面市営化されると、その後は戦後に至るまで路線が延長され、市民の足として大活躍しました。
しかしその後の自動車の普及に伴って乗客の減少が続き、経営が困難となったことで順次路線は廃止されていき、また1969年(昭和44年)には京都の中心部で十文字に交差する地下鉄路線とそれを補完するバス路線網の整備という京都市の新たな交通計画が決定したのを受け、1978年(昭和53年)9月30日には市電は全面廃止となりました。
この点、当駅に以前置かれていた「烏丸車庫前」の電停のうち、まず「烏丸線」の電停は1912年(明治45年)6月11日に七條驛前(後の京都駅前)~烏丸丸太町の間で烏丸線が開業された後、1923年(大正12年)10月21日に烏丸今出川~中賀茂橋西詰(後の植物園前)植物園前まで延伸され烏丸線が全線開業された際に上總町(後に烏丸車庫前と改称)されました。
一方「北大路線」の電停は1930年(昭和5年)5月28日に千本北大路~北大路大徳寺前(後の大徳寺前)の間で北大路線が開業された後、1931年(昭和6年)12月25日に北大路大徳寺前~上總町(後の烏丸車庫前)まで延伸された際に開業され、1978年(昭和53年)10月1日に北大路線の全線廃止を受けて市バスに転換され、この際に烏丸車庫も廃止されています。
一方の市電烏丸線の電停は地下鉄路線の整備を受け1974年(昭和49年)3月31日に七条烏丸~京都駅前を残して大部分が廃止となった際に廃止され(残る区間も1977年(昭和52年)に廃止)、その後、京都の中心部で十文字に交差する地下鉄路線としての 地下鉄烏丸線の建設がすぐに始められましたが、埋蔵文化財の発掘調査などもあって7年の歳月を要し、1981年(昭和56年)5月29日にまず北大路駅~京都駅間が開業された後、1988年(昭和63年)には南側の京都駅~竹田駅間、1990年(平成2年)には北側の北山駅~北大路駅間、更に1997年(平成9年)には国際会館駅~北山駅間と順次延伸され、現在に至っています。
市営地下鉄の「北大路駅」は1981年(昭和56年)5月29日に烏丸線が北大路駅~京都駅間で開業された際に設置され、当初は起点駅でしたが、1990年(平成2年)には北側の北山駅~北大路駅間への延伸によって中間駅となりました。
地下鉄北大路駅に加え、烏丸車庫の跡地には京都有数の規模である「北大路バスターミナル」も設置され、洛北の上賀茂神社や修学院、洛西の金閣寺などへ向かうバスが発着するなど、現在も洛北の交通の要衝となっているほか、また駅周辺には「大谷大学」や各種予備校などの教育施設、北大路ビブレなどが入居する複合施設「キタオオジタウン」や「北大路商店街」などの商業施設なども多く、連日多くの利用客で賑わいます。