京都市北区紫野大徳寺町、臨済宗大徳寺派の大本山・大徳寺の境内南側にある大徳寺の塔頭寺院。
龍源院・大仙院・高桐院とともに大徳寺塔頭で常時公開している4つの寺院の一院。
戦国時代の1536年(天文5年)、後にキリスト教の洗礼を受けキリシタン大名として知られるようになる九州の戦国大名・大友義鎮(宗麟)(おおともよししげ(そうりん) 1530-87)自家の菩提寺として大徳寺の徹岫宗九(てっしゅうそうきゅう 1480-1556)(普応大満国師)を開山に創建されたのがはじまり。
この点、徹岫宗九は戦国時代に活躍した臨済宗の僧で、大徳寺の小渓紹?(しょうふ)に師事してその法を嗣ぎ大徳寺91世となり、第105代・後奈良天皇(ごならてんのう 1495-1557)の帰依を受けたほか、青年時代の上杉謙信(うえすぎけんしん 1530-78)に禅を指導したともいわれている人物です。
一方、大友宗麟は豊後の戦国大名・大友義鑑(おおともよしあき 1502-1550)の長男として生まれ、父の跡を継ぐと、豊後をはじめ筑後、肥後、肥前、豊前の九州の北部6か国を勢力下に置くなど全盛期を築きますが、1578年(天正6年)に薩摩の島津氏と戦って大敗した後は家臣団の分団などもあって衰退し、後に自ら大坂城に赴いて豊臣秀吉に救援を求め、1587年(天正15年)に秀吉が九州を平定したのと同じ時期に病没しています。
そして宗麟といえばキリシタン大名として有名であり、1551年(天文20年)にフランシスコ・ザビエルと面会すると、キリスト教に帰依して宣教師らを保護するとともに南蛮貿易を行って府内(大分県大分市)を西洋文化の中心地とし、またローマ教皇に天正遣欧使節を派遣したことでも知られていますが、当初は禅宗に帰依しており22歳の時に得度し、その宗麟の法名「瑞峯院殿瑞峯宗麟居士」をもって、寺号は「瑞峯院」とされたといい、境内の墓地には大友宗麟夫妻の墓も残されています。
方丈(本堂)、唐門、表門は創建当時の建物で国の重要文化財。
方丈には後奈良天皇の宸筆による「瑞峯院」の寺額を掲げています。
庭園は方丈南庭の「独坐庭」と中庭の「茶庭」、そして方丈北庭の「閑眠庭」のいずれも枯山水の庭園があり、このうち「独坐庭」と「閑眠庭」の2つの庭園はどちらも1961年(昭和36年)に昭和を代表する作庭家・重森三玲が開祖400年遠忌を記念して作庭したもの。
このうち方丈正面の庭園「独坐庭」は寺号「瑞峯」をテーマにした不老不死の世界観を表す蓬莱山式の枯山水庭園で、苔や巨石の間を波に見立てた砂紋がうねるように描かれた様子は、荒波に打ち寄せられても雄々と独坐している蓬莱山の風景を表現しているといい、どんな時でも何事にも動じない、本当の自分の境涯を体得することが、日々の修行の目的であることを悟らしめているといいます。
一方、方丈北側「閑眠庭」の中央には庭を斜めに横切るように縦に4個、横に3個の計7個の石が配され、東の端から眺めると大きな十字架を形作っているように見えることから「十字架の庭」とも呼ばれています。
また境内には複数の茶室があることでも知られていて、「安勝軒」は通常拝観、「平成待菴」は予約による拝見を受け付けており、庭を眺めながら御抹茶の接待が受けられるほか、法話や座禅も体験することができます。
そして方丈西側にある茶室「餘慶庵」では、利休忌にちなんで月命日である毎月28日に月釜が掛けられています。