京都市北区大徳寺町、堀川北大路より約400m西に大伽藍を構える臨済宗大徳寺派の大本山・大徳寺の22ある塔頭寺院の一つで、作庭家として知られる小堀遠州ゆかりの寺院。
大徳寺の寺域の最西端、他の塔頭群からはやや離れた紫野高校の北側を通る坂道を上がった中ほどに位置し、本尊は釈迦如来。
この点、小堀遠州(こぼりえんしゅう 1579-1647)とは、安土桃山期から江戸初期にかけて活躍した大名で、茶人、造園家。
名は政一(まさかず)といい、号は孤篷庵。
近江国小堀村(現在の滋賀県長浜市小堀町)に在郷武士の子として生まれ、父・小堀正次(こぼりまさつぐ 1540-1604)は縁戚であったという浅井氏に仕えた後、1573年(天正元年)に浅井家が滅亡した後は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の弟・羽柴秀長の家臣となったといいます。
その後1585年(天正13年)に秀長が大和郡山城に移封されると、家老となった父・正次とともに大和郡山に移り、秀長の没後は後を嗣いだ豊臣秀保もまもなく死去したため、1595年(文禄4年)に秀吉の直参となって伏見に移り、この頃に古田織部に茶の湯を学ぶことに。
更に秀吉の没後は徳川家康に仕え、父・正次の死後は小堀家を継ぎ、備中国松山藩主を経て、近江国小室藩1万2千石を領する小堀家の初代藩主となりました。
江戸幕府においては殿舎や社寺などの築造や修繕を司る「作事奉行」を務めて建築・土木・造園の分野で活躍し、1608年(慶長13年)には駿府城作事奉行を務め、その功により諸太夫従五位下遠江守に叙せられたことから「遠州」と呼ばれるようになります。
そして1624年(寛永元年)には京都において伏見奉行にも就任しており、没するまで24年もの期間在職しました。
作事奉行として二条城や名古屋城天守、駿府城、伏見城本丸書院、「大坂夏の陣」で炎上した大坂城の再築などの造営にも関わったほか、また朝廷にも認められ桂離宮、仙洞御所などの建築・造園も手がけたといい、他にも二条城二の丸庭園の「八陣の庭」や大徳寺孤篷庵の「近江八景の庭」や南禅寺方丈の「虎の児渡し」、南禅寺金地院の「鶴亀の庭」などの庭園も遠州の手によるものです。
その一方で、遠州は陶芸などの美術工芸や書画、和歌、そして茶道や華道にも優れた才能を発揮し、当代一の文化人として後水尾天皇をはじめとする寛永文化サロンの中心人物でもありました。
とりわけ茶道の世界においては1636年(寛永13年)、品川御殿の作事奉行を務めていた時に御殿で江戸幕府第3代将軍・徳川家光に献茶したのをきっかけに、徳川将軍家の茶道指南役となり、将軍や大名に茶道を指南するようになるなど、千利休、古田織部に次ぐ茶の世界の天下人ともいえる存在であったといいます。
古田織部の門下で茶の湯を学んだ後に「遠州流」を起こし、王朝文化の理念と茶道を結びつけて武家風の中にも宮廷風の雅な意匠を持ち込み、その独特な世界観・作風は千利休を祖とする草庵風の「わび(侘)・さび(寂)」に対して幽玄・有心の「綺麗(きれい)さび」と呼ばれました。
生涯に400回あまりの茶会を開き、招かれた人々は大名・公家・旗本・町人などあらゆる階層から延べ人数は2000人にも及んだといい、遠州流の門下としては松花堂昭乗や徳川家光、沢庵宗彭、狩野守信など、各分野から錚々たる人物が名を連ねています。
初め春屋宗園(しゅんおくそうえん 1529-1611)、後に江月宗玩(こうげつそうがん 1574-1643)に参禅し、墓は当院と伏見区深草大亀谷の仏国寺にあるといいます。
「孤篷庵」は江戸初期の1612年(慶長17年)、その小堀遠州が黒田長政が創建した大徳寺塔頭・龍光院内に江月宗玩を開山に子院として建立、自らの隠棲先として小さな庵を建てたのがはじまり。
庵名は小堀遠州が師事した春屋宗園から授かった号で、開祖・江月宗玩による建立之記の最後にある「容膝安閑孤掩篷 近隣船嶽遠江東 紛々黄落布金意 一草廬中現梵宮」の「孤篷」から採られたもので、「篷」はすげや茅などをこものように編んで舟の上を覆う苫(とま)のことで、「孤篷」は水面に浮かぶただ孤舟を意味し、方丈の南前方に見える船岡山を孤舟に見立てて庵号としたものだといいます。
その後、1643年(寛永20年)に現在地に移築され、遠州の没後は遠州の兄・池田七左衛門の子で遠州の甥にあたる大徳寺第184世・江雲宗龍(こううんそうりゅう 1598-1679)が後を継ぎ、孤篷庵の開山・江月宗玩に参じて法嗣となり孤篷庵に住ました。
江戸後期の1793年(寛政5年)の火災によっていったんは焼失しましたが、遠州を崇敬する風流大名・大名茶人の島根松江藩主・松平治郷(不昧)(まつだいらはるさと(ふまい) 1751-1818)の援助によって古図に基づいて再建されており、現在の「本堂(方丈)」は1797年(寛政9年)に雲林院の客殿を移築したもの、また書院「直入軒」と茶室「忘筌(ぼうせん)」は1798年(寛政10年)に建造されたもので、いずれも国の重要文化財に指定されています。
このうち「忘筌(ぼうせん)」の席は12畳の書院式茶室で、上半分を明かり障子とし下半分を吹き抜けとするたたずまいは露地とともに優れた意匠として名高く、また茶室としては他に龍光院にある国宝の茶室「密庵」を模したという「山雲床(さんうんじょう)」の席があります。
庭園は借景庭園の「本堂前庭」と「忘筌露地庭」、枯山水庭園の「直入軒前庭(近江八景の庭)」「山雲床の庭」から構成され、いずれも遠州好みではあるものの創建時の姿をとどめているかは不明であり、わずかに「忘筌前庭」のみが当時の指図に一致することが確認されているともいいますが、1924年(大正13年)に「孤篷庵庭園」として合わせて国の史跡・名勝に指定されています。
この他にも寺宝として国宝の「井戸茶碗 (銘・喜左衛門)」や重要文化財の「大燈国師墨跡」を所蔵しており、通常非公開の寺院ですが、数年に1度の割合で特別公開が行われることがあるといいます。