京都府久世郡久御山町田井荒見、京都市の南に位置する久御山町の久御山町役場の東、久御山田井交差点より国道1号線を北へ約300mほど進んだ左手に鎮座する神社で、現在は久御山町森宮東にある玉田神社の兼務神社の一社。
当社の創建年代は不明ですが、奈良時代の713年(和銅6年)に第43代・元明天皇(げんめいてんのう 661-721)が諸国に編纂を命じた平安京遷都以前の山城国の文化風土や地理的状況などが記録された地誌「山城国風土記」や927年(延長5年)にまとめられた当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である「延喜式神名帳」に現在の神社名で記載されていることから、少なくとも千年以上前であることは明らかであるといい、「荒見」とは荒水の転訛で、一帯は水害の多い地であったことから、木津川の氾濫を鎮める水神が祀られていたと考えられています。
その後、江戸初期の1630年(寛永7年)に木津川堤切れの洪水によって社殿と社地を失いますが、1664年(寛文4年)に氏子の寄進によって現在地に社殿が再建されています。
旧地についても不詳ではあるものの、当社より南へ約200mの位置に「西荒見」「東荒見」の地名があることから、この周辺ではないかと考えられています。
祭神として武甕槌命(たけみかづちのみこと)、應神天皇(おうじんてんのう)、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)、別雷大神(わけいかづちのおおかみ)、倉稻魂命(うがのみたまのみこと)の5柱が祀られ、江戸時代は「五社大明神」と奉称されていましたが、明治初年に現在の神社名に復したといい、1877年(明治10年)(神社明細帳では明治6年)6月に延喜式内社と決定されています(なお式内社「荒見神社」の論社は他にも城陽市冨野荒見田の「荒見神社」があるが、どちらが式内社であるかの結論は二社に類似する部分が多く結論を下せないともいう)。
この点「山城国風土記」逸文には「荒海の社 名は大歳神」とあることから、当社が式内社の荒見神社ならば「大歳神」が祀られているはずですが、氏子の信仰により時代を経て同じ五穀豊穣を司る穀物神・農業神であり神威の高い倉稻魂命(稲荷大神)へと変わっていったと考えられるといいます。
また境内入口には幕末七卿の1人で明治維新の元勲でもある東久世通禧(ひがしくぜみちとみ 1834-1912)が揮毫した社標が建つほか、明治期まで当社の北側には広大な巨椋池が広がっていたこともあってか、神社の参道入口付近にはこの地が題材となったと思われる、「万葉集」第9巻に収録されている「巨椋の 入江響むなり 射目人の伏見が田井に 雁渡るらし」と詠まれた歌の刻まれた歌碑も建立されています。