京都市伏見区横大路天王後、京都市南部、伏見区の大手筋から淀へと通じる旧京阪国道(府道13号線)の外環横大路交差点そばに鎮座する神社。
社伝によれば平安後期の治暦年間(1065-69)、祇園感神院、現在の八坂神社より牛頭天王の神霊を勧請し産土神としたのがはじまりで、当初は現在地より北の下鳥羽田中里に社殿があり「牛頭天王田中神社」と称していたといいます。
その後、戦国時代の天正年間(1573-92)に起こった大洪水の際、本殿が流されて現在地に全くの無傷で漂着、氏子はその奇跡に大変驚き、総出で境内を整備するとともに、盛大な祭りを行ったと伝えられています。
現在の本殿は江戸後期1816年(文化13年)に前年の火災の後に再建されたもので、優雅な大型の一間社流造、拝殿は1996年(平成8年)に再建・復興されたものです。
古来より疾病除け・厄除けの神として崇められ、また平安時代より明治初期まで続いた草津湊があり、多くの魚市が立ち、物資を輸送する馬借・車借などの運送業者が軒を連ね、当社を商売繁盛・交通安全の神として厚く崇敬したといい、現在は厄除開運・家内安全、下鳥羽南部・横大路北部の産土神として崇敬を集めています。
その他にも「馬の神様」として氏子区域にとどまらず広く崇敬を集めており、とりわけ神社の南方近くに京都競馬場があることから競馬ファンの必勝祈願スポットとして知られているといいます。
境内に鎮座する北向八幡宮は1872年(明治5年)に草津湊より田中神社の境内に遷座された社で、「夜泣き・癇の虫封じ」の神様として崇められていて、平安時代、憲平親王(のりひらしんのう 950-1011)(後の第63代・冷泉天皇)は癇の虫がひどかったそうですが、第62代・村上天皇の中宮である母・藤原安子(ふじわらのあんし 927-64)がこの八幡宮に祈願したところ、たちどころに平癒したといい、安子の父・藤原師輔(ふじわらのもろすけ 909-60)により御所を守護するために北向きに社殿が建てられ「北向」と称されるようになったと伝えられ、祈願する場合に「よだれ掛け」を奉納する風習があるといいます。