京都市伏見区下鳥羽中三町、平安京の南端の現在の九条通沿いに設けられた羅城門の前から南へと伸び、淀へと続く「鳥羽街道」の途中、鴨川と桂川の合流地点より少し北の鴨川堤防沿いにある浄土宗の寺院。
正式名称は「瑞華山 薬師院 法傳寺」で山号は瑞華山、本尊は阿弥陀如来。
その歴史は古く奈良時代の726年(神亀3年)、東大寺の奈良の大仏を造立したことで知られる第45代・聖武天皇(しょうむてんのう 701-56)が諸病平癒のための勅願所として、行基(ぎょうき 668-749)に一刀三礼の薬師尊像を彫刻させて当寺に安置し、仏餉田500町を賜り「法田寺」と号したのがはじまりとされています。
当初は真言宗(三論宗の説も)でしたが、南北朝時代の1357年(正平12年/延文2年)に知恩院の第11世となった円智が1360年(正平15年/延文5年)に浄土宗に改宗。
岩屋金峰寺の不動明王の霊夢を感得した上人はこの地に閑居し、阿弥陀堂を建立するとともに、閑居後も当寺にて念佛弘通に努め、その際に寺号も「法傳寺」と改められたといい、江戸時代には寺格制度(本末制度)によって浄土宗の中本山として末寺十余か寺を有し栄えたといいます。
幕末の1868年(慶応4年)1月3日、薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍と旧幕府軍が戦った「戊辰戦争」の最初の戦いとなる「鳥羽伏見の戦い」が、同寺の北方にある城南宮の西側にある小枝橋付近で開戦されると、鳥羽の地で轟いた大砲の音は伏見にも届き、鳥羽と伏見の2つの場所で激しい戦闘が繰り広げられますが、戦いは新政府軍が3倍の兵力を有する旧幕府軍(東軍)を圧倒し、旧幕府軍は多数の死者・負傷者を出しつつ南方の淀、そして八幡方面へと敗走し、最後は淀川を下がって大坂城へと退却していきます。
このうち「鳥羽の戦い」における死者への弔いや取り残された負傷者の手当は下鳥羽の民衆が行っていたといい、法傳寺は境内を避難所に死傷者の受け入れを行い、さながら野戦病院のようであったという言い伝えられています。
これらの戦死者は近くの「悲願寺墓地」に埋葬されていて、現在は寺はなくなり墓地のみが残り法傳寺によって管理されているといいますが、更に法傳寺には会津兵を中心とした旧幕府軍(東軍)が使用した短銃や大小の砲弾、太刀、槍の穂先などのほか、東軍戦死者名簿も残されています。
また1897年(明治30年)には「東軍慰霊祭」が営まれ、その記念として戦いにゆかりのある法傳寺の山門の北側に「戊辰東軍戦士之碑」の慰霊碑も建立され、現在は日清日露、第二次大戦の忠魂碑とともに並んで立っています。
本堂に安置されている本尊・阿弥陀如来坐像は鎌倉期の作で、また木造薬師如来坐像は平安期の作と考えられ京都市登録文化財に登録されていますが、通常は非公開。
また当寺は浄土宗で最初に念仏に木魚を使った寺院であることから「木魚念佛最初の地」とされています。
「木魚(もくぎょ)」は読経の際に拍子(リズム)をとるために使用される仏具・楽器の一種で、元々は「魚板(魚鼓)」といい、木製の魚の形をした板で寺で僧侶たちを集める合図のために打ち鳴らされていたものでしたが、後に小型化して円形となり、置いて打つようになったといい、中国・明(1368-1644)の時代には現在の木魚の形が確立していたといいます。
日本では室町時代には存在していたといいますが、本格的に使用され出したのは江戸時代に入ってからで、中国から来日して禅宗の一派である黄檗宗を開いた隠元隆琦(いんげんりゅうき 1592-1673)が読経の際に拍子をとるために使ったのが始まりとされています。
現在では浄土宗に限らず普通に見られる読経の際にポクポクと木魚を叩きながら唱えるスタイルは江戸時代には異端とされていたそうですが、江戸中期の1749年(寛延2年)に当寺の住職となり寺を再興した法傳寺中興の祖・不退円説(ふたいえんせつ 1714-59)が始めたとされていて、これ以降全国各地に広まって行ったとみられていて、当寺には国内でたった1体しか現存しないという木魚念仏の祖である不退円説上人像が所蔵されていて、特別公開の時などに公開されるといいます。