京都市伏見区中島御所ノ内町、名神高速道路の京都南インターのやや南、城南宮の西鳥居の1号線を挟んだ向かいにある老舗の和菓子店。
創業が永禄年間の1560年代という450年以上の古い歴史を持ち、「おせきもち」が古くより鳥羽街道名物として親しまれてきました京都を代表する名店の一つです。
「鳥羽」の地は、平安京のメインストリートである朱雀大路の延長線上、平安京の羅城門からまっすぐ南へ約3km進んだ付近にあり、山陽道が通るほか、鴨川と桂川の合流地点にあり、朱雀大路を延長した「鳥羽作道」を通じて平安京の外港としての機能を持つなど、交通および物流の要衝であった場所です。
そしてその一方で豊かな水に恵まれた風光明媚な場所でもあり、古くから貴族たちが別邸を建て、狩猟や遊興を楽しんでいたといわれています。
平安後期には白河上皇が鳥羽離宮を建造し、その後は鳥羽上皇、後白河上皇を経て、鎌倉初期の後鳥羽上皇まで引き継がれ、鳥羽は経済・物流の拠点としてだけではなく、いわゆる「院政」の舞台として政治の中心地にもなった場所でした。
ちなみにこの地に離宮を築いたのは、都で大きな影響力を持っていた藤原摂関家の影響を避けるためともいわれています。
その後も都と西国を結ぶターミナルとして、また河港として瀬戸内海から都へと運び入れられる鮮魚類の取引市場として、人馬の往来で賑わいますが、江戸時代には「せき女」という娘がいて、この地に茶屋を設けて編笠の形をしたあん餅を笹の裏に並べて鳥羽街道を往来する旅人たちにふるまったといいます。
そして心根の美しい娘が真心を込めて旅人を労わったため大変評判となり、あん餅は「おせき餅」と呼ばれてその名をとどめ、その後も鳥羽街道の名物として商われ続けました。
しかし1868年(慶応4年)正月、明治維新とともに新政府軍と旧幕府軍が衝突した「鳥羽・伏見の戦い」では、鳥羽街道の小枝橋付近一帯は戦いの中心となり、民家などが焼き払われる中でおせきもちも店を焼失。
その後1932年(昭和7年)に京阪国道が敷設されるとともに城南宮門前の現在地に移転し、当時と変わらぬ鳥羽の名物として、また現在は名神高速道路のインターチェンジのすぐ南にも位置しており、国道を通る人々や方除のご利益で有名な城南宮を参拝する人々などにも親しまれています。
「おせきもち」はコシの強いしっかりとした食感の白餅と風味豊かなよもぎ餅の上に、炊いた後低温で1週間寝かせて熟成させた丹波大納言小豆のつぶ餡をたっぷりと乗せた和菓子で、原材料そのものの味を生かすため、手のこんだ加工を避け創業当時から変わらないあっさりとした素朴な味わいが特徴です。
「おせきもち」のほかにも滑らかなこし餡に包まれた「おはぎ」も味わえるほか、店内でのイートインも可能で、抹茶とのセットも楽しめます。
またお土産として持ち帰りもできますが、お餅は当日限りの消費期限なので注意が必要です。
店内では鳥羽街道の模様を描いた鳥羽絵図も展示されていて、当時の様子を偲ぶことができるようになっています。