京都市右京区宇多野、世界遺産の金閣寺から龍安寺、そして仁和寺と続く「きぬかけの路(観光道路)」の終点にあたり、国道162号線(周山街道)と交差する「福王子」の交差点前に鎮座する神社。
「御室桜」で有名な真言宗御室派総本山の仁和寺(にんなじ)の開基である第59代・宇多天皇の生母である斑子女王(はんし)を祭神として祀り、現在でも仁和寺の守護神として非常に深い関係にあると同時に、また近隣の旧6か村の氏神・産土神としても崇敬されている神社です。
この点、班子女王は第58代・光孝天皇の皇后で、当初は皇后ではありませんでしたが、息子が天皇に即位したため後に皇太后とされました。
光孝天皇は現在の御室大内山の麓に、国家の安泰と仏法の興隆を願って寺院の建立を発願し伽藍の造営に着手しますが、その完成を見る前に亡くなってしまい、その遺志を継いだ第59代・宇多天皇が母・班子女王とともに造営したのが現在の「仁和寺」です。
そして900年(昌泰3年)に68歳で亡くなった班子女王は頭陀寺に葬られましたが、その陵墓が付近にあったことから、この地に班子女王を奉祀する神社が造営されたと伝えられています。
社伝によるとその前身は「深川神社」といい、平安中期の延喜式にもその名前が見られるといいます。
平安時代から鎌倉初期にかけとりわけ歴代の仁和寺法親王から厚い御崇敬を受け、仁和寺の鎮守神として奉られてきましたが、1468年(応仁2年)、「応仁の乱」によって御室仁和寺の全ての堂塔伽藍とともに焼失。
その後再興されたのは江戸初期に入ってからで、1644年(寛永21年)に第3代将軍・徳川家光の寄進により、仁和寺法主・覚深法親王が仁和寺の五重塔や仁王門などの堂塔伽藍の再建整備と同時に社殿を造営、その際に「福王子神社」と改められました。
ちなみに「福王子」の社名の由来は、班子女王が光孝天皇との間に4男4女といわれる多くの皇子皇女をもうけた事に由来するといい、一帯の地名としても跡をとどめています。
家光および覚深法親王によって再建された現在の本殿は一間社春日造、屋根は珍しい木賊(とくさ)葺で、再建当時の社殿一式がそのまま保存されている貴重なものとして、1973年(昭和48年)3月に拝殿・鳥居・棟札および石燈籠2基とともに国の重要文化財に指定されており、その後2002年(平成14年)には本殿の丹塗りの修復も行われています。
その他に、本殿の左にある境内末社・夫荒社(ふこうしゃ)は平安時代には洛北や丹波の氷室から毎年夏に宮中御所へ氷を献上する慣わしがあり、その運搬の際に命を落とした役夫の霊を「夫荒神」として祀り、安全を祈願し建てられたといい、一説には前身の「深川」あるいは「福王子」の名前の由来とする説もあるといいます。
行事としては毎年10月の第3日曜に開催される「秋季大祭」が有名。
神輿の巡行コースは、午前8時半に福王子神社を出発→鳴滝→山越→太秦→常盤→御室→仁和寺→福王子神社に16時に到着するコースとなっています。
神輿が氏子達により威勢よく練られる14時半頃の仁和寺山門前や、15時半頃の福王子交差点は大勢の人で賑わいますが、中でも仁和寺山門の石段を神輿が上り下りする様は圧巻です。
神輿は仁和寺の山門を通り、勅使門から宸殿前に進み、奉幣を受ける「奉幣の儀」も往時のままに行われています。
他に1月7日に「七草粥」が振舞われることでも知られています。