京都市西京区松室山添町、洛西の松尾大社から南へ4~500mほど進んだ児童公園の向かいにある神社。
古より安産の神様として信仰を集めている神社で、現在は松尾大社の境外摂社となっています。
この点、月読神社は「延喜式」では名神大社の一つに数えられる神社で、祭神である月読神は、もとは航海の大族である壱岐氏が壱岐島(長崎県)において航海・海上の神として祀られていたものです。
そして「日本書紀」によれば、阿閉臣事代(あべのおみことしろ)が朝鮮半島の任那へ派遣される途中に壱岐島に立ち寄った際、月読神(月讀尊)が出現し自分を祀れとの神託があったため、都に帰ってこれを天皇に奏上(社地を求められたとも)。
第23代・顕宗天皇の代の487年(顕宗天皇3年)に朝廷より山背国葛野郡歌荒樔田(うたあらすだ)に神領を賜って壱岐の月読神社の神を勧請し、壱岐県主・押見宿禰に奉斎させた、これが神社のはじまりとされています(ちなみに歌荒樔田の比定地は、上野村、桂里、有栖川流域説など諸説あり)。その後、押見宿禰の子孫は卜部氏を称し、代々神職を務めました。
文献上では701年(大宝元年)に「葛野郡月読神」ほか諸神の神稲を中臣氏に給するという記録が初見で、もとは大堰川(桂川)の川べりにありましたが水害に遭い、その後「日本文徳天皇実録」]によると、856年(斉衡3年)に水害の危険を避けるため、「松尾之南山」即ち松尾山南麓に遷座されたといい、以後現在まで当地に鎮座するとされています。
このほか「山城国風土記」逸文によると、月読尊が保食神のもとを訪れた際、その地にあった桂の木に憑りついたといい、「桂」の地名はこれに始まるという説話も記されています。
更に927年(延長5年)成立の「延喜式」神名帳では、山城国葛野郡に「葛野坐月読神社 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列する(式内社)とともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されているといいます。
上記のように歴史も古く、朝廷の奉幣が行われるなど高い格式を持つ独立の神社でしたが、その一方で松尾大社の勢力圏内にあることから古くからその影響下にあり、「松尾七社」の一社とされていました。
そして江戸時代には衰退し、明治維新後の、1877年(明治10年)3月21日に松尾大社の境外摂社に公式に定められて現在に至っています。
ちなみに月読神社の京都への勧請に際しては渡来系氏族、とりわけ秦氏の関わりがあったと考えられており(秦氏が渡来人たちの渡日ルートである韓半島→対馬→壱岐→九州の航海安全を祈るため、月読神の勧請に応えたと考えられる)、古代京都の祭祀や渡来文化の考証上重要な神社であるとして、境内は京都市指定の史跡に指定されています。
境内は、江戸時代に建てられた本殿、拝殿を中心に御船社、聖徳太子社などで構成されているほか、本殿の北には、神功皇后が腹を撫でて安産を祈願したと伝わる神功皇后ゆかりの「月延石(つきのべいし)(通称・安産石)」があることから、今日まで「安産守護のお社」として広く信仰を集めています。
この点「雍州府志」所載の伝説では、この石は元々は筑紫にあり、神功皇后が応神天皇を産む際にこの石で腹を撫でて安産した石で、これを舒明天皇の時代に月読尊の神託により天皇が伊岐公乙等を筑紫に遣わして求められ、月読神社に奉納したといいます。
そして、古くから妊娠した女性は「戌の日」に神社に参拝し安産祈願を行うのが習わしとされており、現在でも「戌の日」に安産の特別祈祷が行われ、祈祷の後には「安産祈願石」に名前を書き、月延石の前にお供えしてお参りをするという風習が残っており、月延石の前には多くの安産祈願石が積まれているのを目にすることができます。
この他にも春の「松尾祭」においては「松尾七社」の祭神が1基の唐櫃と6基の神輿にて氏子区域を巡幸しますが、その7社の先陣を飾る唐櫃が月読社のものとなっています。
ちなみに月読尊(ツクヨミ)といえば「古事記」「日本書紀」などの神話において天照大神(アマテラス)の弟神として知られていますが、月読神社の祭神はこれらの神話とは別の伝承で伝えられた月神であると考えられています。
「日本書紀」における月読神社の創建伝承では、高皇産霊(タカミムスビ)を祖とする「月神」は壱岐県主(いきのあがたぬし)に奉斎されたとあり、また「先代旧事本紀」では、「天月神命」の神名が壱岐県主祖と見えることから、祭神の神格は海人の壱岐氏(いきうじ)によって祀られた月神=海の干満を司る神と考えられています。