京都市右京区嵯峨亀山町、嵯峨嵐山にそびえる小倉山の山麓、奥嵯峨にある祇王寺のすぐ隣に位置する浄土宗の寺院。
山号は小倉山、本尊は阿弥陀如来。
元々の旧名は「三宝寺」といい、法然の弟子・念仏房良鎮(りょうちん)が開創し念仏道場として栄えた「往生院(現在の祇王寺)」の子院で、かつて「平家物語」の巻の十「横笛」にて登場する斎藤時頼(滝口入道)(さいとうときより(たきぐちにゅうどう))と横笛(よこぶえ)との悲恋の物語が伝えられていた場所であることから「滝口寺」と呼ばれていました。
滝口入道は名を斎藤時頼といい、平重盛に家臣として仕え宮中の警衛に当たる滝口の武士(滝口とは清涼殿の東庭北東の詰所のこと)となりますが、平清盛の西八条殿の花見の宴の際に平清盛の娘で安徳天皇の生母・建礼門院に雑仕女(ぞうしめ)として仕えていた横笛の舞を見て一目で恋に陥りますが、彼の父親が身分の違いを理由にその恋を許さなかったため、落胆のあまり時頼はわずか19歳にして往生院に入り出家し「滝口入道」と呼ばれました。
これを聞いた横笛は往生院を訪ねますが、滝口入道は修行の妨げになると会わず、直後に女人禁制の高野山清浄院に移ってその後「高野聖」となったといい、1184年(元暦元年)には紀伊国勝浦での平維盛の入水に立ち会っています。
また滝口入道を会うことが叶わなかった横笛は悲しみのあまり大堰川に身を沈めたとも、奈良・法華寺に出家したともいわれていて、法華寺には横笛堂が建てられているほか、本堂には横笛が手紙の反故(ほご)で自らの姿を作ったと伝わる張り子の横笛像が安置されているといいます。
一方、三宝寺は「応仁の乱」などの戦火で多くの社寺が焼失する中で兵火を免れたものの、明治期に入り明治維新の際の「廃仏毀釈」によって廃絶となっていましたが、昭和の初期に入って「平家物語」の二人の悲恋のゆかりの地として有志によって庵室が建てられ、清凉寺内の史跡となって再興されることとなり、小説家・高山樗牛(たかやまちょぎゅう 1871-1902)が1894年(明治27年)に書いた処女作であり代表作でもある歴史小説「滝口入道」にちなんで歌人で国文学者の佐佐木信綱(ささきのぶつな 1872-1963)が「滝口寺」と名付けたといいます。
竹林と楓に囲まれた閑静な境内には茅葺き屋根の鄙びた古民家といった風情の本堂が建てられていて、堂内には三宝寺の寺跡を引き継ぐ形でその遺物であるという目に水晶の入った出家して滝口入道と称した斎藤時頼と横笛の坐像が安置されています。
また本堂へ向かう参道石段の途中には滝口入道に会えずに都へと戻る横笛が、自分の気持ちを伝えるために指を切り、その血で記したといわれている「歌碑」が建っています。
その他にも境内には1338年(延元3年/建武5年)に越前にて戦死した南朝方の武将・新田義貞(にったよしさだ)の首塚とその妻・勾当内侍(こうとうのないし)の供養塔もあり、三条河原で晒された夫・義貞の首を勾当内侍が密かに盗み出してこの地に埋葬し、庵を結んで出家し、生涯この地で暮らしたという、もう一つの悲恋の物語が伝えられており、また野趣溢れる庭は秋は隠れた紅葉の名所となっていて、隣の祇王寺と一緒に参拝する人も多く見られます。