京都市右京区天竜寺立石町、嵯峨嵐山の渡月橋から長辻通を北へ進んだJR嵯峨野線の踏切の手前に伽藍を構える浄土宗の寺院。
法然ゆかりの寺院の一つで、「法然上人二十五霊場」の第19番札所になっている寺院で、山号は極楽殿熊谷山、本尊は法然53歳の時といわれる法然上人自作尊像。
寺の創建者である「平家物語」でも有名な源氏方の武将・熊谷次郎直実(くまがいのじろうなおざね 1141-1207)は、源平が戦った「一ノ谷の合戦」で平敦盛の首を獲るなど、武将として華々しい活躍をしたことで知られていますが、しかしその後は戦いの明け暮れた日々と殺生に世の空しさを感じ、積もる罪業を償い極楽往生へと進む道を求めて、家族や源頼朝の制止を振り切り、武士を捨て仏門に入る決心をして法然を訪ねたといいます。
これに対し法然は「どんなに罪は深くとも、念仏さえ一心に申せば必ず救われる」と説き、この有り難い教えに歓喜した直実は1193年(建久4年)の春、53歳にして直ちに出家・剃髪してその弟子となり、「法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)」と称したといいます。「蓮生」とは泥沼の中でも濁りなく清らかに花を咲かせる蓮のような心を持って生きるという意味が込められているといいます。
蓮生は入門して間もなく法然の生誕の地である岡山県に「誕生寺」を創建した後、再び京都に戻り法然に仕えながら3年間仏教を学びますが、1195年(建久6年)8月に故郷の熊谷(くまがい)(現在の埼玉県熊谷市)に帰ることになりますが、その際に法然の姿を拝したいと御影を懇願、これに対し法然は自作の木像を与えたといいます。
その尊像を奉持し熊谷に帰った蓮生は「熊谷寺(ゆうこくじ)」を建立しますが、やはり法然の側が最も良いとの霊告を受けて翌1196年(建久7年)に再び京都に戻ります。
そして現在の長岡京市に「粟生光明寺」を創建する前年の1197年(建久8年)5月、現在の四条烏丸の北、錦小路東洞院の西側の父・貞直の旧地に法然を開山として仰ぎ、御影を安置し「法然寺」と号したのが当寺のはじまりで、現在一帯の地名となっている「元法然寺町」はその名残りです。
その後鎌倉後期の正安年間(1299-1302)、第93代・後伏見天皇(ごふしみてんのう 1288-1336)が病気のときに夢枕に法然が立ち、念仏をすれば病は平癒すると言ったため、そのとおりにしたところ病気が治ったといい、そこで当寺の法然像を見つけて御所に召されるとともに「極楽殿」の勅額を賜ります。
また戦国時代には第105代・後奈良天皇および第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう 1517-93)の勅願寺となり、その間には足利義政や豊臣秀吉から扶助を受けていて、徳川幕府からも300石と御朱印を拝したといいます。
そして正親町天皇からは「熊谷山」の勅額も賜っており、このため当時の正式名は「極楽殿 熊谷山 法然寺」となっています。
そして寺地については1591年(天正19年)の豊臣秀吉の都市改造計画により、四条通から寺町通を下がった寺町仏光寺に移転した後、1961年(昭和36年)に嵯峨嵐山の地に移転し現在に至っており、その間度々兵火に遭っていますが、幸いにも法然上人53歳の時の自作尊像は被災を免れ、本尊として現在の本堂に安置されています。
寺宝としては本尊である法然上人53歳の時の自作尊像のほか、後伏見天皇から賜った勅額「極楽殿」や正親町天皇からの勅額「熊谷山」のほか、法然の「肉牙の舎利」や「一ノ谷の合戦」で自らが討ち取り、出家後にこの像を作って丁寧な回向をしていたという「平敦盛像」、更には「熊谷次郎直実の鎧で作った灯篭」などがあります。
また観光寺院ではありませんがご朱印は受け付けており、春には本堂前に見事な枝垂桜が咲くことでも知られています。
ちなみに「法然上人二十五霊場」については、第2番(香川県高松市)と第10番(奈良県橿原市)も同じ寺名の「法然寺」であるため、間違えないよう注意が必要です。