京都市右京区嵯峨広沢西裏町、嵯峨の広沢池から南へ約200m下がった住宅街の中にある真言宗御室派の準別格本山。
「広沢不動尊」の通称で知られ、山号は広沢山(廣澤山)(ひろさわざん)、本尊は十一面観世音菩薩立像。
平安中期の989年(永祚元年)、寛朝(かんちょう 916-98)が、円融上皇の勅願により遍照寺山麓の南にある広沢池の北西池畔の山荘を改めて寺院にしたのがはじまり。
この点、寛朝は仁和寺を創建したことで知られる宇多天皇(寛平法皇)の孫にあたり、真言宗広沢流の流祖で真言宗で初めて大僧正となったほか、不思議な法力を持ち祈祷により「平将門の乱」を平定し、東国鎮護のため下総国(千葉県)に「成田山新勝寺」を建立したことでも知られている人物です。
創建当初は「嵯峨富士」と云われる端麗な遍照寺山を映す広沢池に金色の観世音菩薩を祀る観音島がり、池畔に多宝塔、釣殿等、数々の堂宇が立ち並び、西は大覚寺、東は仁和寺と寺域を接する広大な寺域と壮麗な伽藍を有する大寺院であったといいます。
また後に発達した東密における小野、広沢根本二流のうち、「広沢流」の本寺として栄えました。
醍醐寺を中心とする小野流では庶民出身の僧侶の活躍が目立ちましたが、仁和寺を中心とする広沢流は名門貴族出身者が多く、その根本道場として名声を高めたといいます。
しかし寛朝の没後は次第に衰微し、鎌倉時代の1321年(元享元年)に後宇多天皇により復興されるも、「応仁の乱」の兵火で荒廃し廃墟となったといいます。
その後、江戸初期の1633年(寛永10年)に仁和寺門跡の覚深入道親王の内意によって広沢池南の現在地に移され、本尊および寛朝画像などが草堂に移され「遍照寺」の名跡が引き継がれた後、江戸後期の文政年間(1818-30)の1830年(文政13年・天保元年)に舜乗(しゅんじょう)により復興が進められて堂宇を再建。
更に昭和期に収蔵庫と護摩堂が再建され、1997年(平成9年)に客殿および庫裡が建立され現在に至っています。
落ち着いた雰囲気の境内には表門から中門を経て、護摩堂までまっすぐに参道が伸び、本堂には本尊・木造十一面観音像や「広沢の赤不動さん」の名で親しまれる木造不動明王坐像(通称・赤不動明王)を安置。
これらはいずれも定朝の父・康尚による一木調成の木像と伝わり、奇跡的に難を逃れた創建当初の像として国の重要文化財にも指定されています。
そしてこのうち「赤不動明王」は「広沢の赤不動さん」として地元の人に親しまれ、現在は交通安全や厄除けにご利益のある寺院として参拝に訪れる人が多く、また毎月28日のお不動さんの縁日には午前10時より不動護摩が焚かれるほか、住職の法話や写経もでき多くの人で賑わいます。
また遍照寺の行事としてとりわけ有名なのが、毎年8月16日に広沢池で行われる「灯籠流し」です。
京都の夏の風物詩である「五山の送り火」の「鳥居形」の送り火が灯る中、広沢池には多くの灯籠が流されて幻想的な雰囲気となり、毎年多くの観光客が訪れます。
この他にも境内の嵯峨野大黒天が「京都六大黒天霊場(京の大黒さんめぐり)」の第4番として知られています。
周辺環境としては境内北隣に「稲荷古墳」の上に建てられ朱色の鳥居が石段に等間隔に並ぶ姿が印象的な「冨岡稲荷(冨岡大明神)」があるほか、広沢池の北西池畔にはかつての遍照寺の建物の遺構が発見されており、市指定の史跡として「史跡 遍照寺旧境内建物跡」の石碑が建てられています。