京都市東山区今熊野町、東山七条から東大路通を南へと下がった「今熊野」交差点付近に鎮座する神社。
祭神は熊野牟須美命(いざなみのみこと)を始めとする12社の神々で、京都熊野神社および熊野若王子神社とともに「京都三熊野」の一社に数えられる神社です。
紀伊半島の南部の大半を占める紀伊山地は、古くから神々が鎮座する特別な地域として崇められた場所でした。
和歌山・奈良・三重の3つの県にまたがって険しい地形が連なる中で、古くより「南山」と呼ばれるそれぞれが独自の発展を遂げた三つの霊場が誕生。
政治と結びつきの強くなった奈良仏教の世俗化などに反発するかたちで始まり、天台宗・真言宗の密教において行われるようになった山岳仏教のうち真言宗の総本山である「高野山」
自然崇拝に根ざした神道で紀伊半島を浄土とみなす熊野信仰の霊場「熊野三山」
両者が結びついて生まれた修験道の修行の地としての「吉野・大峯」
更にそれらを結ぶ参詣道も形成され、それらは「熊野古道」と総称されています。
紀伊路 大阪方面~田辺
大辺路 田辺~熊野那智大社
中辺路 田辺~熊野本宮大社、熊野三山それぞれを結ぶ
小辺路 熊野本宮大社~高野山
大峯奥駈道 熊野本宮大社~吉野・大峯
伊勢路 三重方面~熊野本宮大社または熊野速玉大社
これらの多様な信仰形態を育んだ神仏の霊場とそれらを結ぶ参詣道の古道がともに広範囲にわたり極めて良好に保全され、山岳、森林と一体となった「文化的景観」を形成しているとして人類共有の財産として認められ、2004年(平成16年)7月、熊野三山を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」として日本で12番目の「世界遺産」に登録されています。
そして「熊野」はそのような紀伊半島の東南に位置し、古代より木や岩、川や滝などを神とする自然崇拝の地として崇められ、本宮(ほんぐう)、新宮(しんぐう)、那智(なち)の3か所にそれぞれ神が祀られていました。
本宮、現在の「熊野本宮大社」は熊野川・音無川・岩田川の三つの川の合流点にある中洲の大斎原にあって川を神格化したものとされ、須佐之男命ともいわれる「家津御子大神(けつみこおおかみ)」が祀られていました。
新宮、現在の「熊野速玉大社」は近隣の神倉山のゴトビキ岩と呼ばれる磐座に祀られていた神で、その後現在地である熊野川の河口付近に新しい宮を作って遷座し「新宮」と号したといい、伊邪那岐神ともいわれる「熊野速玉大神(くまのはやたまおおかみ)」が祀られていました
那智、現在の「熊野那智大社」は那智の滝に社殿を設けて滝の神を祀っていたものがその後那智山中腹の高台の現在地に遷されたもので、伊邪那美神ともいわれる「熊野夫須美(産霊)大神(くまのふすみおおかみ)」が祀られていました。
上記のように元々3つの社はそれぞれ個別の自然崇拝を起源に持っていましたが、6世紀に仏教が伝来してくると熊野では早くから神=仏と考えるいわゆる「神仏習合」が進んで仏教的要素が強まり、神が権(仮)に仏に姿を変えて衆生を救うために現れるという「熊野権現信仰」が盛んとなります。
そして三社の神々にそれぞれ本地仏(ほんじぶつ)があてがわれ、本宮は西方極楽浄土(阿弥陀如来=来世)、新宮は東方浄瑠璃浄土(薬師如来=現世)、那智は南方補陀落浄土(千手観音)の地とされ、熊野全体が浄土の地であるとみなされるようになり、更に三社とも三所権現を相互に祀り合うことで一体化し、「熊野三所権現(熊野三所権現以外の神々も含めて熊野十二所権現とも)」「熊野三山」と呼ばれて現世および来世での救いを願う朝野の人々の崇敬を集めるようになります。
更に平安後期から鎌倉初期にかけての院政期には、白河・鳥羽・後白河・後鳥羽のの各上皇によって熊野御幸が盛んに行われ、とりわけ後白河上皇は34回もの御幸を行ったといい、これによって熊野の名が広く知られるようになり、鎌倉期以降は庶民にも広まり「蟻の熊野詣」とまで形容されれるほど、多くの人々が切れ目なく熊野に参詣したと伝えられています。
明治期に入ると国家の神道国教化政策によって「神仏分離令」が発令され、それぞれ「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」となり、現在も日本全国に約3千社ある熊野神社の総本社であるとともに、「熊野古道中辺路」によって結ばれる「熊野三山」は世界遺産にも登録され、広く信仰されています。
そして「新熊野神社」は紀伊半島南部、紀州国(和歌山県)の熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社のいわゆる「熊野三山」を参詣する「熊野信仰」が盛んであった平安末期の1160年(永暦元年)、後白河上皇(ごしらかわじょうこう)が自らも深く信仰していたという熊野の神「熊野三所権現(くまのさんしょごんげん)」を勧請して創建されました。
後白河帝は1155年に即位の後、1158年に退位しますが、退位後も法住寺殿(現在三十三間堂の東側にある法住寺の前身)にて「院政」を敷き、「法住寺殿」と呼ばれましたが、その鎮守寺として法住寺殿内に創建されたのが「三十三間堂」であり、鎮守社として創建されたのが「新熊野神社」だといいます。
そして法皇の命を受けてその造営に当たったのが平清盛・重盛父子で、清盛は熊野の土砂や材木を用いて社域や社殿を築き、那智の浜の青白の小石を敷くなどして霊地熊野を再現したといいます。
この点、法皇はその生涯で34回も熊野に参詣していますが、当時の都人にとって熊野参詣は大変なことであり、熊野の新宮・別宮として創建されたのが当神社で、その後長らく「京の熊野信仰の中心地」として栄えました。
ちなみに「新熊野(いまくまの)」の呼び名は、紀州の古い熊野(昔の熊野)に対し京の新しい熊野(今の熊野)と呼んだことが由来といわれています。
「応仁の乱」以降、度々の戦火に見舞われて一時は衰退を余儀なくされますが、江戸初期に2代将軍・徳川秀忠の娘で3代将軍・徳川家光の妹にあたる後水尾天皇の中宮・東福門院和子が神社の再建を発願。
現在の本殿は1663年(寛文13年)に後水尾上皇の皇子である聖護院宮道寛親王によって修復されたもので、京都市の重要文化財に指定されています。
そして境内には「新熊野十二社権現」と称して上・中・下各四社の十二社が祀られており、本社から時計回りに参拝し、最後に「大樟社」を参拝するのが正式な参拝作法とされています。
このうち神社の一番の見どころは境内入口にある「大樟(おおくすのき)」で、高さは約19m、周囲は6mもあり、東大路通沿いにそびえるように立ち、遠くからでも神社の位置がわかるほど大きさて、神社のシンボル的存在となっています。
創建当時に熊野から移植され、上皇自らお手植されたものだといい、樹齢は900年近くあり、京都市の「天然記念物」にも指定されています。
熊野の神々が降臨された霊樹と伝えられ、健康長寿・病魔退散、とりわけ「お腹の神」として篤く信仰されるほか、安産の守り神としても知られています。
次に本殿の左右にある御神木の「椥(梛)(なぎ)の木」については、梛は災いを「なぎ」払い平和を招来する木であるだけでなく、その葉は切れにくいことから縁結び、また二つ並んで実をつけることから「夫婦円満」のご利益があるとされています。
そして神社周辺の地名に「椥ノ森」とあるように、古くから「梛の宮」と呼ばれていたといわれています。
また御神鳥の「八咫烏(やたがらす)」は別名「太陽の使者」ともいわれ、勝利に導く幸運のシンボルとして日本サッカー協会のシンボルマークとなっていることでも有名で、そのご神徳を授かろうとサッカーをはじめとする球技愛好者が全国から訪れるといいます。
更に当社は能楽の祖として知られる観阿弥・世阿弥父子が1374年(応安7年)にこの地で「新熊野神事猿楽」を演能し、これを観た室町幕府3代将軍・足利義満はいたく感動し、2人は観阿弥・世阿弥と名乗るようになり、今日の能楽の礎となった場所であることから「能楽発祥の地」としても知られています。
これにちなんで境内には世阿弥直筆の著書から採ったという「能」の文字の刻まれた記念碑も建てられています。
行事としては鳳輦の巡行がある毎年5月5日の「新熊野祭(神幸祭)」のほか、9月敬老の日の「大樟祭」、11月23日の「お火焚祭」、12月23日の「つなかけ祭」、更には1月の成人の日頃に行われる「左義長神事」などが有名です。