「六勝寺(りくしょうじ)」とは、平安後期の院政期と呼ばれる時代に天皇や中宮の発願で鴨川東岸の「白河」、現在の左京区岡崎の地にかつてあった「法勝寺」「尊勝寺」「最勝寺」「円勝寺」「成勝寺」「延勝寺」の6つの寺院のことをいい、寺名にいずれも「勝」の字がつくことから「六勝寺」と総称されました。
現在の美術館などの文化施設が集中する岡崎文化ゾーンの一帯が六勝寺の跡地に該当し、現在では「岡崎法勝寺町」や「岡崎成勝寺町」「岡崎最勝寺町」の町名に往時の名残を残しています。
平安京では10世紀後半頃になると右京の衰退が進む一方で左京は繁栄し拡大を続け、鴨川の東側にも邸宅が数多く軒を並べるようになり、中でも二条大路を鴨川を渡って東へ進んだ先の南北に広がる「白河」の地は、9世紀半ば頃に皇族以外で初めて摂政の座に就くなど摂関政治を確立し藤原北家の基礎を築いた藤原良房(ふじわらのよしふさ 804-72)の別荘「白河別業(しらかわべつごう)」が築かれ、桜の名勝として知られていたといいます。
「白河別業」はその後も藤原氏の全盛期を築いた藤原道長ら藤原氏北家に代々受け継がれていましたが、1075年(承保2年)に道長の長男で平等院を建てたことで知られる藤原頼通(よりみち)の子・藤原師実(ふじわらのもろざね 1042-1101)の代に白河天皇に献上され、1077年(承暦元年)に第72代・白河天皇(しらかわてんのう 1053-1129)の御願で創建されたのが「六勝寺」の筆頭である「法勝寺(ほっしょうじ)」です。
白河天皇はその後1086年(応徳3年)に譲位して上皇となって「院政」を開始し、法勝寺の西側には「白河泉殿(北殿)」という院御所、更に南殿とこれらに附属する御堂や蓮華蔵院(れんげぞういん)と得長寿院(とくちょうじゅいん)などが建立され、白河の地は院や女院の御所、仏堂が多数建ち並ぶなど、洛南の鳥羽殿(鳥羽離宮)とともに院政の拠点とされます。
中でも「法勝寺」は「国王の氏寺」と称されたように護国のための国家的寺院として位置づけられ、その権威を示すかのようにその中心には奈良東大寺の大仏殿と同じ毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)を本尊として祀る「金堂」を配し、更に金堂の南の池の中島には高さ80m以上あったと推定される「八角九重塔」が建てられ、壮麗を極めていたといい、多くの僧侶や貴族たちが奉仕する様々な国家的仏事がこの寺で行われたと伝えられています。
そして法勝寺の後も、1102年(康和4年)には第73代・堀河天皇(ほりかわてんのう 1079-1107)による「尊勝寺(そんしょうじ)」、1118年(元永元年)には第74代・鳥羽天皇(とばてんのう 1103-56)による「最勝寺(さいしょうじ)」、1128年(大治3年)には鳥羽天皇中宮で崇徳天皇や後白河天皇の母・待賢門院(藤原璋子)(たいけんもんいん(ふじわらのしょうし) 1101-45)による「円勝寺(えんしょうじ)」、1139年(保延5年)には第75代・崇徳天皇(すとくてんのう 1109-64)による「成勝寺(せいしょうじ)」、そして1149年(久安5年)には第76代・近衛天皇(このえてんのう 1139-55)による「延勝寺(えんしょうじ)」と、白河帝に続く天皇や上皇、女院たちによる御願寺が次々と建立されています。
これら六勝寺は創建後しばらくは落雷や火災など度々の災害に見舞われ、その都度修復・再建されていたようですが、院政期が隆盛から終焉を迎え、鎌倉以降の武士の時代の到来とともに次第に衰微していき、室町時代の有名な「応仁・文明の乱」(1467-77)の兵火で廃絶したとされています。
六勝寺はロームシアター京都の付近を中心に東西1.2km、南北1km以上もある広大なエリアに伽藍を構えていたようで、現在ある施設との関係はそれぞれ
・京都市動物園とその北部一帯が「法勝寺」
・ロームシアター京都とその西一帯が「尊勝寺」
・平安神宮とその南の岡崎公園一帯が「最勝寺」
・京都市美術館の一帯が「円勝寺」
・京都府立図書館・京都国立近代美術館の一帯が「成勝寺」
・京都市勧業館(みやこめっせ)の一帯が「延勝寺」
と推定されています。
当時を偲ぶ建造物などは現在は残っていませんが、ゆかりの場所には寺院跡を示す石碑や説明版などが建てられており、史跡めぐりをするのもおすすめなほか、また京都市中京区聚楽廻松下町の「平安宮」の史跡跡に建てられた京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)にある「京都市平安京創生館」には平安京や鳥羽離宮などの復元模型などとともに「法勝寺復元模型」も常設展示されていて、当時の碁盤目状の整然とした区画や八角九重塔などの壮大な伽藍が立ち並ぶ当時の様子を窺い知ることができるようになっています。
その他にも六勝寺のあったとされる地中には現在も建物や溝、築地などの遺構のほか、瓦や土器などの遺物
が大量に埋まっており、今後の追加の発掘調査が待たれます。
また六勝寺があったとされる場所の中心には、現在は南禅寺の方から鴨川に向けて明治期に開発された琵琶湖疏水が流れていますが、その琵琶湖疏水の蹴上の南禅寺橋から鴨川東岸の川端通まで約2kmにわたる疏水沿いの歩道には「六勝寺のこみち」と命名された小道が整備されていて、柳や桜が植えられて疏水の流れを眺めながら散策を楽しめるようになっています。