六勝寺跡(六勝寺のこみち)

六勝寺跡(六勝寺のこみち)

 

 

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六勝寺跡(六勝寺のこみち)とは?(基本データ)

名前
六勝寺跡(六勝寺のこみち)(りくしょうじあと(りくしょうじのこみち))
エリア
岡崎・吉田・鹿ケ谷
ジャンル

寺院・神社跡

建立・設立
[法勝寺] 1077年(承暦元年)
[円勝寺] 1128年(大治3年)
[最勝寺] 1118年(元永元年)
[成勝寺] 1139年(保延5年)
[延勝寺] 1149年(久安5年)
[尊勝寺] 1102年(康和4年)
創始者
[法勝寺] 第72代・白河天皇
[円勝寺] 鳥羽天皇中宮・待賢門院(藤原璋子)
[最勝寺] 第74代・鳥羽天皇
[成勝寺] 第75代・崇徳天皇
[延勝寺] 第76代・近衛天皇
[尊勝寺] 第73代・堀河天皇
アクセス

■白河院跡・法勝寺跡

  • 京都市営地下鉄東西線「東山」駅下車 徒歩約15分
  • 京阪本線・鴨東線「神宮丸太町」駅下車 徒歩約23分
  • 京都市営バス「岡崎法勝寺町」(5・岡崎ループ号系統)下車すぐ
  • 名神高速道路「京都東IC」より車で約20分
駐車場
なし
拝観料
なし
お休み
特になし
拝観時間
見学自由
住所
〒606-8333・606-8343・606-8342
京都府京都市左京区岡崎法勝寺町・岡崎成勝寺町・岡崎最勝寺町
電話
-
FAX
-
公式サイト
六勝寺 京都市
法勝寺復元模型 京都市平安京創生館

六勝寺跡(六勝寺のこみち)の地図

六勝寺跡(六勝寺のこみち)のみどころ (Point in Check)

「六勝寺(りくしょうじ)」とは、平安後期の院政期と呼ばれる時代に天皇や中宮の発願で鴨川東岸の「白河」、現在の左京区岡崎の地にかつてあった「法勝寺」「尊勝寺」「最勝寺」「円勝寺」「成勝寺」「延勝寺」の6つの寺院のことをいい、寺名にいずれも「勝」の字がつくことから「六勝寺」と総称されました。

現在の美術館などの文化施設が集中する岡崎文化ゾーンの一帯が六勝寺の跡地に該当し、現在では「岡崎法勝寺町」や「岡崎成勝寺町」「岡崎最勝寺町」の町名に往時の名残を残しています。

平安京では10世紀後半頃になると右京の衰退が進む一方で左京は繁栄し拡大を続け、鴨川の東側にも邸宅が数多く軒を並べるようになり、中でも二条大路を鴨川を渡って東へ進んだ先の南北に広がる「白河」の地は、9世紀半ば頃に皇族以外で初めて摂政の座に就くなど摂関政治を確立し藤原北家の基礎を築いた藤原良房(ふじわらのよしふさ 804-72)の別荘「白河別業(しらかわべつごう)」が築かれ、桜の名勝として知られていたといいます。

「白河別業」はその後も藤原氏の全盛期を築いた藤原道長ら藤原氏北家に代々受け継がれていましたが、1075年(承保2年)に道長の長男で平等院を建てたことで知られる藤原頼通(よりみち)の子・藤原師実(ふじわらのもろざね 1042-1101)の代に白河天皇に献上され、1077年(承暦元年)に第72代・白河天皇(しらかわてんのう 1053-1129)の御願で創建されたのが「六勝寺」の筆頭である「法勝寺(ほっしょうじ)」です。

白河天皇はその後1086年(応徳3年)に譲位して上皇となって「院政」を開始し、法勝寺の西側には「白河泉殿(北殿)」という院御所、更に南殿とこれらに附属する御堂や蓮華蔵院(れんげぞういん)と得長寿院(とくちょうじゅいん)などが建立され、白河の地は院や女院の御所、仏堂が多数建ち並ぶなど、洛南の鳥羽殿(鳥羽離宮)とともに院政の拠点とされます。

中でも「法勝寺」は「国王の氏寺」と称されたように護国のための国家的寺院として位置づけられ、その権威を示すかのようにその中心には奈良東大寺の大仏殿と同じ毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)を本尊として祀る「金堂」を配し、更に金堂の南の池の中島には高さ80m以上あったと推定される「八角九重塔」が建てられ、壮麗を極めていたといい、多くの僧侶や貴族たちが奉仕する様々な国家的仏事がこの寺で行われたと伝えられています。

そして法勝寺の後も、1102年(康和4年)には第73代・堀河天皇(ほりかわてんのう 1079-1107)による「尊勝寺(そんしょうじ)」、1118年(元永元年)には第74代・鳥羽天皇(とばてんのう 1103-56)による「最勝寺(さいしょうじ)」、1128年(大治3年)には鳥羽天皇中宮で崇徳天皇や後白河天皇の母・待賢門院(藤原璋子)(たいけんもんいん(ふじわらのしょうし) 1101-45)による「円勝寺(えんしょうじ)」、1139年(保延5年)には第75代・崇徳天皇(すとくてんのう 1109-64)による「成勝寺(せいしょうじ)」、そして1149年(久安5年)には第76代・近衛天皇(このえてんのう 1139-55)による「延勝寺(えんしょうじ)」と、白河帝に続く天皇や上皇、女院たちによる御願寺が次々と建立されています。

これら六勝寺は創建後しばらくは落雷や火災など度々の災害に見舞われ、その都度修復・再建されていたようですが、院政期が隆盛から終焉を迎え、鎌倉以降の武士の時代の到来とともに次第に衰微していき、室町時代の有名な「応仁・文明の乱」(1467-77)の兵火で廃絶したとされています。

六勝寺はロームシアター京都の付近を中心に東西1.2km、南北1km以上もある広大なエリアに伽藍を構えていたようで、現在ある施設との関係はそれぞれ
・京都市動物園とその北部一帯が「法勝寺」
・ロームシアター京都とその西一帯が「尊勝寺」
・平安神宮とその南の岡崎公園一帯が「最勝寺」
・京都市美術館の一帯が「円勝寺」
・京都府立図書館・京都国立近代美術館の一帯が「成勝寺」
・京都市勧業館(みやこめっせ)の一帯が「延勝寺」
と推定されています。

当時を偲ぶ建造物などは現在は残っていませんが、ゆかりの場所には寺院跡を示す石碑や説明版などが建てられており、史跡めぐりをするのもおすすめなほか、また京都市中京区聚楽廻松下町の「平安宮」の史跡跡に建てられた京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)にある「京都市平安京創生館」には平安京や鳥羽離宮などの復元模型などとともに「法勝寺復元模型」も常設展示されていて、当時の碁盤目状の整然とした区画や八角九重塔などの壮大な伽藍が立ち並ぶ当時の様子を窺い知ることができるようになっています。
その他にも六勝寺のあったとされる地中には現在も建物や溝、築地などの遺構のほか、瓦や土器などの遺物 が大量に埋まっており、今後の追加の発掘調査が待たれます。

また六勝寺があったとされる場所の中心には、現在は南禅寺の方から鴨川に向けて明治期に開発された琵琶湖疏水が流れていますが、その琵琶湖疏水の蹴上の南禅寺橋から鴨川東岸の川端通まで約2kmにわたる疏水沿いの歩道には「六勝寺のこみち」と命名された小道が整備されていて、柳や桜が植えられて疏水の流れを眺めながら散策を楽しめるようになっています。

六勝寺跡(六勝寺のこみち)の施設案内

 

法勝寺跡

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    法勝寺

    「法勝寺(ほっしょうじ)」は1077年(承暦元年)に第72代・白河天皇(しらかわてんのう 1053-1129)の御願で創建
    東は岡崎道より300m東、西は岡崎道、南は現在の動物園の南、北は冷泉通より50m南に囲まれた広大な寺域に、五大堂・八角堂・常行堂などの諸堂が立ち並び、中でも池の中島に建つ「八角九重塔」は高さ80mの壮大な塔であったと伝わるが、1185年(文治元年)の大地震によって九重塔以外の諸堂の大半が倒壊し、1208年(承元2年)には九重塔も落雷によって焼失
    栄西が大勧進となって一部が再建されるも、1342年(康永元年)の火災によって残る堂舎も焼失し、その後、覚威によって一部再建されたものの、衰退の一途をたどり、やがて廃寺となったという
    京都市動物園とその北部一帯が寺院跡
    宿泊施設「白河院」の門前に駒札と石標があり、邸内に京都市指定名勝の「白河院庭園」があるほか、その西に「金堂跡(基壇部推定地)」がある
    また法勝寺八角九重塔の跡地は京都市動物園の園内にあたり、「法勝寺九重塔址」の石標が建てられている

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    宿泊施設「京都 白河院」

    数寄屋造りの別館と京都市指定名勝の日本庭園を有する宿泊施設
    建物と庭園は明治から昭和にかけて呉服業を営んでいた下村忠兵衛の所有となった1919年(大正8年)に建てられたもので、1958年(昭和33年)に現所有者の前身である私立学校教職員共済組合の宿泊施設となり現在に至っている
    1982年(昭和57年)に洋館と和館の一部は取り壊されたものの、庭園部分はほとんど改変を受けず、2003年(平成15年)4月1日に「白河院庭園」として「京都市指定名勝」に指定

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    「白河院跡並びに法勝寺跡」の駒札

     

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    「此附近 白河院址」の石碑

     

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    「京都市指定名勝 白河院庭園」の案内板

     

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    白河院庭園

    1919年(大正8年)に7代目小川治兵衛(植治)により作庭
    2003年(平成15年)4月1日に「白河院庭園」として「京都市指定名勝」に指定
    東山の眺望を活かしつつ和館の傍らにクロマツの大木を配することで敷地に遠近感を与えるなどの工夫が凝らされ、樹木の特性を熟知した植栽の配置や琵琶湖疏水から引かれた水流の巧みな取扱いなど治兵衛による円熟の技が随所に現れている

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    法勝寺 金堂跡(基壇部推定地)

     

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    「法勝寺九重塔址」の石碑

    京都市動物園の観覧車に近い噴水池の東に建つ
    池の石橋は塔の石材の一部であるほか、園内のあちこちで遺構と思われる石材を目にすることができる

円勝寺跡

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    円勝寺

    「円勝寺(えんしょうじ)」は1128年(大治3年)に鳥羽天皇中宮である待賢門院(藤原璋子)(たいけんもんいん(ふじわらのしょうし) 1101-45)の御願で創建
    一町四方の敷地を有し堂舎が増築されたが、創建以降は度々の災難に見舞われ、「応仁の乱」で廃絶したと伝わる
    京都市美術館一帯が寺院跡

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    「六勝寺のこみち」の石碑

    仁王門通と岡崎通の交差点の北西角
    広道橋の南詰西側にある

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    「六勝寺桜並木路」の石標

    仁王門通と神宮道の交差点の東にある

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    「円勝寺跡」の石碑

    二条通沿い、京都市美術館の北側、「岡崎公園 動物園前」バス停そばの生垣

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    円勝寺発掘調査記念碑

    京都市美術館の敷地北東にある石段を上がった左奥

最勝寺跡

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    最勝寺

    「最勝寺(さいしょうじ)」は1118年(元永元年)に第74代・鳥羽天皇(とばてんのう 1103-56)の御願で創建
    平安神宮とその南の岡崎公園一帯が寺院跡

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    二条大路北側築地塀跡の地業石(推定最勝寺跡)と説明版

    岡崎公園の京都ココログループのトイレの南東、二条通に近い位置

成勝寺跡

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    成勝寺

    「成勝寺(せいしょうじ)」は1139年(保延5年)に第75代・崇徳天皇(すとくてんのう 1119-64)の御願で創建
    方一町または東西二町の敷地を有し、1156年(保元元年)に起こった「保元の乱」で第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう 1127-92)らと対立して讃岐に配流となった崇徳院の御願により建立されたことから、その怨霊を慰撫するための「御八講法要」が行われていたというが、「応仁の乱」によって廃絶したと伝わる
    京都府立図書館・国立近代美術館一帯が寺院跡

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    「成勝寺跡」の石碑

    みやこめっせの東側、京都府立図書館の北側
    川端警察署岡崎公園交番の裏にある公園内のワグネル博士顕彰碑のそば

延勝寺跡

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    延勝寺

    「延勝寺(えんしょうじ)」は1149年(久安5年)に第76代・近衛天皇(このえてんのう 1139-55)の御願で創建
    平清盛の父である平忠盛(たいらのただもり 1096-1153)が建設責任者を務め、東西二町の敷地を有する大寺院であったが、建立以降は度々の災難に見舞われ、「応仁の乱」によって廃絶したと伝わる
    みやこめっせ一体が寺院跡

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    「延勝寺跡」の石碑と案内板

    二条橋西詰から疎水沿いに南へ下がった所にある

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    「延勝寺跡」の石碑

    みやこめっせの北西側、二条橋東詰そば

尊勝寺跡

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    尊勝寺

    「尊勝寺(そんしょうじ)」は1102年(康和4年)に第73代・堀河天皇(ほりかわてんのう 1079-1107)の御願で創建
    方四町の敷地に様々な堂舎が建てられていたといい、創建以降は度々の災難に遭うもその都度修復されてきたが、南北朝の内乱期の兵火で全焼したと伝わる
    ロームシアター京都とその西一帯が寺院跡
    2つの塔をもっていたとされる尊勝寺が最もよく発掘調査が進んでおり、金堂や回廊、塔、阿弥陀堂、観音堂、五大堂、法華堂などの建物群が検出され、推定寺域は240m四方以上もありロームシアター京都付近が金堂跡にあたる

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    「尊勝寺跡」の石碑

    ロームシアター京都横、京都市美術館別館の入口手前右

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    「院政の舞台「六勝寺跡」と京都会館」の案内板

    「尊勝寺跡」の石碑のそば

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    「尊勝寺跡」の説明版

    京都市武道センターの西側の桜馬場通沿い
    1986年(昭和61年)に京都府営住宅西天王町団地の改築工事に伴う発掘調査で尊勝寺の御堂跡が発見されたことを説明
    建物跡は東西110尺(33m)、南北64尺(19.2m)の規模を持ち、6体の観音像を安置する観音堂の跡と推定されるとしている

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    井戸跡

    武道センター門の内側

得長寿院跡

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    「得長寿院跡」の石碑

    徳成橋南詰東側
    「得長寿院(とくちょうじゅいん)」は「最勝寺」を建立した第74代・鳥羽上皇の御願寺の一つで、平清盛の父・平忠盛が造営した観音堂には十一面観音や等身聖観音千体が安置され、現存する蓮華王院(三十三間堂)と同規模の建築であったといわれている

白河殿(北殿・南殿)跡

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    「白河南殿跡」の石碑

    熊野橋南詰西側
    「白河南殿(しらかわみなみどの)」は第72代・白河上皇の建立した法勝寺の西方にあり、1095年(嘉保2年)頃に大僧正・覚円(1031-98)の房舎であったものを白河上皇の院御所に改めたもので、後に設けられた北殿に対し南殿や南本御所と呼ばれた
    1114年(永久2年)には敷地の西側に蓮華蔵院の前身となる阿弥陀堂が、1130年(大治5年)には三重塔などが建立され、水石風雅な御所であったことから「白河泉殿」とも呼ばれていたという

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    夷川ダム舟溜ベンチ

     

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    白河南殿雨落溝の石材

    疎水に沿った冷泉通沿いにある「ファルコバイオシステム京都営業所」の前
    展示されている石材は1980年(昭和55年)8月に実施された発掘調査にて、南殿の主要伽藍の一部と考えられる建物跡が2棟、初めて検出された際の、建物の雨落溝に使用されていた石材の一部を移築したもの

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    疏水こみち

    夷川ダムの方から西の鴨川へと続く琵琶湖疏水沿いの冷泉通に整備された小道
    入口には「疏水こみち」の石碑が建つ

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    「此附近 白河北殿址」の石碑

    熊野神社から丸太町通りを西へ向かい、熊野寮の一番西北角
    「白河北殿(しらかわきたどの)」は第72代・白河上皇の院御所で、南本御所(南殿)に対して北殿や北新御所と呼ばれた
    白河上皇の後は第74代・鳥羽天皇の第2皇女で弟である第77代・後白河天皇の准母として皇后の尊称を受けた上西門院(統子内親王)(じょうさいもんいん(むねこないしんのう) 1126-89)の御所となっていたが、1156年(保元元年)7月に第75代・崇徳上皇が移り住んだ後、「保元の乱」の勃発とともに平清盛ら後白河方の軍勢によって攻撃を受けて炎上し焼失

関連

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    京都市平安京創生館

    京都市中京区聚楽廻松下町の「平安宮」の史跡跡に建てられた京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)内にある
    平安京や鳥羽離宮などの復元模型などとともに「法勝寺復元模型」を常設展示している

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    大蓮寺(安産祈願の寺)

    法勝寺の礎石がある

六勝寺跡(六勝寺のこみち)の主な年間行事・カレンダー

年中行事

 

 

 

月並行事

 

 

 

花ごよみ

 

桜(サクラ)

 

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