京都市左京区田中上柳町、京阪・叡山の出町柳駅のすぐ東にある浄土宗寺院。
正式名は「干菜山斎教院安養殿光福寺(ほしなざんさいきょういんあんようでんこうふくじ)」。
寺伝によると鎌倉時代の寛元年間(1243-47)に道空(どうくう)によって西山安養谷(長岡京市)に創建された「斎教院」がはじまり。
その後、安土桃山時代の1582年(天正10年)に月空宗心(げっくうそうしん)によって現在地に移転されたといいます。
1593年(文禄2年)には鷹狩りの途中に当寺に立ち寄った豊臣秀吉に対し、当時の住職であった宗心が乾菜(ほしな)を献上。
乾菜(ほしな)とは大根や蕪を陰干ししたもので、食用のほかに干菜湯としても用いたといい、六斎念仏の人たちは普段から干菜を食していたといい、これに感心した秀吉から「干菜山光福寺(ほしなざんこうふくじ)」の称号を与えられたといわれています。
そして現在は「六斎念仏(ろくさいねんぶつ)」ゆかりの寺として知られています。
この点「六斎念仏」は太鼓や鉦を打ち「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えながら踊る民族芸能で、平安時代中期に空也上人が一般庶民に信仰を広めるために始めたと伝わる踊念仏(おどりねんぶつ)に起源を持ち、月に6日ある忌み日「六斎日」に行われたことから「六斎念仏」と呼ばれるようになったそうです。
そして、室町中期頃からは能や狂言も採り入れられ大衆化され、現在は京都を中心に六斎日に関係なくお盆の前後や地蔵盆に行われています。
1977年(昭和52年)にはこの平安期から続く貴重な民俗芸能の保存・継承に努力していくために「京都六斎念仏保存団体連合会」が結成されるとともに、1983年(昭和58年)には「国の重要無形民俗文化財」にも指定されています。
そして現在の京都の六斎念仏は大きく分けると、念仏を唱えながら鉦と太鼓を打つという原型を留めた形の干菜山光福寺を総本山とする干菜系の「念仏六斎」と、能や狂言などを採り入れ芸能的色彩を帯びていった紫雲山極楽院空也堂を中心とする空也堂系の「芸能六斎」に分類されます。
本寺の創建者である道空はは空也上人が平安中期に創始された「踊念仏」に工夫を加えて「六斎念仏」として世に広め一般化し定着させたことで知られていて、その後も「干菜寺系」の念仏六斎の中心として最盛期には127の干菜寺系の講があったといい、当寺に伝わる「六斎念仏興起書(ろくさいねんぶつこうきしょ)」によれば、室町時代には第104代・後柏原天皇(ごかしわばらてんのう 1462-1526)より「六斎念仏総本寺」の勅号を賜っており、現在の門前にはそのことを示す「六齋念佛総本寺」の石標が建つほか、その傍らには六斎念仏の様子を描いた石碑も建てられています。
しかし芸能的要素が強い空也堂系の六斎念仏が多く受け入れられるようになったこともあり干菜寺系の六斎念仏は数を減少させ、現在は「五山の送り火」の船形で知られる西方寺のものが知られる程度になっており、また干菜山光福寺の地元である旧田中村の六斎念仏講においても、芸能六斎が人気を集めた江戸期以降、いつの頃からか芸能六斎が行われるようになり、更にその後、第二次世界大戦とともに後継者不足により途絶えたといいます。
このため「田中村六斎念仏」は現在は上御霊神社や鞍馬口上善寺の地元である「小山郷六斎念仏保存会」の協力によって1935年(昭和10年)から毎年、奉納上演が続けられているといい、毎年8月20日の干菜山光福寺での奉納は主に小山郷六斎念仏保存会のメンバーが中心となって行っているといいます。
もっとも道具などが光福寺に残されていたことから、復活に向けて動きは出ているとのことで、小山郷六斎念仏保存会の協力の下で指導を受け、8月20日の奉納には田中地区の子どもたちも参加するようになっているといいます。
この他に寺に伝わる寺宝としては、本堂に1313年(正和2年)に花園天皇から賜った閉目の阿弥陀如来像を安置するほか、収蔵庫には六斎念仏興起書などの諸文献や、秀吉寄進の陣太鼓や秀吉の画像などを所蔵しているといいます。