三年坂から下へ、京都らしい風情をたたえる石畳の坂
名前の由来は三年坂の下にあるからという説と大同2年にできたからとする説がある。
祇園・八坂方面と清水を繋ぐため観光客が絶えず、沿道には土産物店、陶磁器店や料亭などが並ぶ。
石畳と町屋風の建物の京都らしい風情と景観で産寧坂とともに伝統的建造物群保存地区に選定
二年坂のみどころ (Point in Check)
京都市東山区清水2丁目にある坂で、世界遺産・清水寺へと向かう参道の一つ。
範囲は湯どうふの奥丹前の産寧坂(八坂通)との分岐から、北へと伸びる石段を下り、高台寺南通(維新の道)との分岐までの約140m。
産寧坂(三年坂)とともに京都を代表する観光地である東山の、北側にある八坂神社や知恩院、円山公園、高台寺、法観寺(八坂の塔)と、南側にある清水寺とを結ぶルートにあることから観光客の絶えない場所で、道の両側には土産物店や飲食店のほか、清水焼や竹細工店、料亭などが数多く立ち並んでいる賑やかな場所です。
その一方で石畳の通り沿いには八坂の塔や高台寺などの社寺建築物に加えて、江戸末期から大正時代にかけて建てられた町家が数多く残されており、これらが一体となって京都らしい風情のある街並みと情緒ある美しい景観を今に伝えています。
このことから周辺一帯は1972年(昭和47年)に特別保全修景地区に指定された後、1976年(昭和51年)に文化財保護法に基づき「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されており、景観の保護が図られています。
地元の住民や商店などが主体となっの組織した「古都に燃える会」による駒札によれば、二寧坂(二年坂)の名前の由来は産寧坂(三年坂)と同様に大同2年(807年)に坂が整備されたという説があるほか、坂道は古くからあったが産寧坂(三年坂)の下(手前)の坂という意味で、この名が通り名となったとする説など、こちらも諸説あるといいます。
また「ここでつまづき転ぶと二年以内に死ぬ」という言い伝えは「石段、坂道は気をつけて」という警句が語り伝えられたものと思われます。
そして「坊日誌」によると「宝暦八年(1758)桝屋喜兵衛なる者、官の許可を得て、之を開拓屋地と為す」とあり、以来この付近は「桝屋町」と称するようになったといい、産寧坂(三年坂)と同様に二年坂も高台寺から清水寺へと続く参道の一つであり、昔から清水寺周辺の参拝客を相手とする土産物店や飲食店などが立ち並び、大正初期に現在の家並みが形成されたものと考えられています。
二年坂は大正ロマンを代表する画家で数多くの美人画を残した竹久夢二(たけひさゆめじ 1884-1934)が東京日本橋の紙問屋の一人娘・笠井彦乃と出会って運命的な恋に落ち、京都に逃れた際に一帯を好んで散策したといわれていて、石段を下りた所には1917(大正6年)から2年弱を過ごしたという寓居跡の石碑が建てられています。