京都市中京区麩屋町通二条上ル布袋屋町、京都御苑の南(御所南)にある天台宗の寺院で、正式名は「瑠璃光山利生院大福寺」。
本堂が一堂あるのみの民家と変わらないほどの小ぢんまりとした寺院ですが、「菩提薬師(ほていやくし)」の通称で親しまれています。
寺伝によれば、その創建は古く飛鳥時代、推古天皇の時代の598年(推古天皇6年)に大和国宮田郷に建立され、聖徳太子が自ら刻んだ薬師如来像を祀ったのがはじまりと伝えられています。
平安末期には後三条天皇の勅願に依り鎮護国家の道場となり、更に室町初期の1356年(延文元年)(移転の時期は平安初期とも)に勅詔により京都に移転。
当初は夷川通から二条通、富小路通から麩屋町通までの方八丁(約880m四方)の寺域を賜わり、七堂伽藍が建立されるなど、歴朝皇室の崇敬が篤かったといいます。
しかし江戸時代の天明年間の1788年(天明8年)に起きた「天明の大火」にて焼失して寺域の多くを失い、現在はわずかに本堂部分を残すのみとなっています。
本尊・菩提薬師如来(ほていやくし)は聖徳太子の自刻と伝わり「京都十二薬師」の一つに数えられるとともに、「京都十二薬師霊場」の第10番札所となっており、毎年1月17日にご開帳されています。
また本尊の他に安産腹帯地蔵尊や布袋尊なども安置されており、このうち布袋尊は「京都七福神」の第7番札所にも数えられています。
また江戸時代から大福寺の界隈の商家では、正月(節分の日)に金銭の出納帳に縁起の良い「大福」寺の宝印の授与を受けると「商売繁盛」になるとされ、これが「大福帳」という言葉の由来になったといわれているほか、幕末には勤王志士・梅田雲浜(雲濱)(1815-59)の仮寓であったことでも知られています。
雲浜は若狭小浜藩の藩士の家に生まれ、尊王の志を抱いて京に出て尊皇攘夷を唱える同志たちの間で指導者的立場として活躍しましたが、1858年に起きた有名な「安政の大獄」にて吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らと共に捕えられて獄死。同地は雲浜が仮寓して妻女を迎えたところだといいます。