京都市中京区姉小路通釜座東入津軽町、地下鉄烏丸御池駅の南西にあるNHK京都放送局の南型を通る姉小路通を西へ進んだ先に鎮座する神社で、平安時代にに後白河天皇などが御所(里内裏)として使用した「高松殿」の旧跡であり、鎮守社でもあった神社です。
平安中期、第60代・醍醐天皇の10番目の皇子・高明親王が920年(延喜20年)、7歳の時に源朝臣の姓を賜り源高明(みなもとのたかあきら 914-82)となり、平安京の左京三条三坊三町に自らの御殿として「高松殿」を造営。
同時に伊勢神宮より天照大神を勧請し、高松殿の鎮守社として祀ったのがはじまり。
後に藤原道長の妻となった高明の娘・明子も高松殿を伝領して住居とし、道長の娘・寛子が小一条院(敦明親王)に嫁ぐと、その御所となり「高松殿」と呼ばれるなど、藤原氏の摂関政治の全盛期に高松殿は女御や退位した上皇の御所となった場所でした。
その後焼失し、平安後期の1146年(久安2年)に鳥羽上皇により再興された後、1155年(久寿2年)には後白河天皇(1127-92)がここ高松殿で即位し、御所(里内裏)として使用し「高松内裏」と称されました。
そして天皇と上皇の兄弟の争いに端を発した1156年(保元元年)の「保元の乱」の際には弟・後白河天皇方の本拠地となり、源義朝(みなもとのよしとも 1123-60)や平清盛(たいらのきよもり 1118-81)らが参集して、兄・崇徳上皇(すとくじょうこう 1119-64)方の白河北殿へ攻め込み、わずか一日で勝利を収めましたが、その3年後に起きた1159年(平治元年)の「平治の乱」で高松殿は焼失し、当社のみが残されたといいます。
室町時代の1565年(永禄8年)には宥玉法印が山ノ内より社僧として入ると、神社は「高松神明宮宝性院」という神仏習合の神宮寺となり真言宗・東寺宝菩提院の末寺となります。
その後1590年(天正18年)の秀吉による京都の都市改造計画で釜座通と小川通を開いた際に半分に縮小したほか、度々火災に遭うなどし境内地は徐々に縮小。
また境内には地蔵尊、金比羅神社をはじめとする末社もあったといいますが、幕末1864年(元治元年)の「蛤御門の変」による大火によりことごとく焼失したといいます。
そして明治初期に「神仏分離令」が発令されると、1873年(明治6年)に宝性院は廃寺となり、社号も現在の「高松神明神社」に改められました。
ちなみに「神明神社(しんめいじんじゃ)」とは、天照大御神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社で、神社本庁によれば日本全国に約5千社、一説には約1万8千社あるともいわれています。
現在の社殿は1911年(明治44年)に造営されたもので、祭神として天照大神・八幡大神・春日大神を祀り、開運厄除けのご神徳で信仰を集めています。
また境内には神宮寺の宝性院だった時代の1794年(寛政6年)に宥玉法印が、紀州九度山の伽羅陀山に安置してあった真田幸村の念持仏を拝領してきたという神明地蔵尊「幸村の知恵の地蔵尊」が祀られています。
地蔵堂の台石をさすり、子達の頭をなでると知恵を授かると信仰を集めており、近年は京都では数少ない真田幸村ゆかりのスポットとして戦国・歴史ファンからも注目を集めています。