京都市下京区諏訪町通五条下る下諏訪町、烏丸五条の南西、五条通の南北および東西を東洞院通と西洞院通に囲まれた「尚徳学区」に鎮座する神社。
祭神として「諏訪大明神」とも呼ばれる建御名方神(たけみなかたのかみ)および八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)を祀ります。
この点、祭神の建御名方神(たけみなかたのかみ)は「古事記」において出雲・大国主神の御子神であり、事代主神の弟神とされている神様。
「古事記」の国譲りでは大国主神が天照大神の命を奉じて国土を献上して隠退するいわゆる「国譲り」の場面に登場。国譲りの際にこれに反対して最後まで抵抗し、建御雷神(たけみかづち)と相撲の起源ともいわれる力比べをして争いますが、敗れて信濃の諏訪の海に逃れ、諏訪の地に閉居することで許されたといわれています。
古くは神功皇后、それから後述する坂上田村麻呂や甲斐の戦国大名・武田信玄などが武神・軍神として崇めたことで知られていますが、生産開発の神として開運招福のご利益もあり、とりわけ無病息災、健康と長寿を守る神として広く信仰されています。
797年(延暦16年)、第50代・桓武天皇より蝦夷平定のため征夷大将軍を拝命した坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、かねてより信濃国(長野県)の「諏訪大明神(すわだいみょうじん)」を深く信仰しており、その神威と御加護をもって戦果を挙げ、801年(延暦20年)10月に平安京に凱旋します。
社伝によれば、その御礼のために五条坊門の南に社殿を造営し、信州より諏訪大明神の分霊を勧請して祀ったのがはじまりとされ、以降は時代の経過とともに社殿も荒廃しますが、その都度再建・復興が繰り返されています。
まず平安後期の第82代・後鳥羽天皇の1186年(文治2年)には源義経が社前を広めて社殿を再建したほか、樹木を植え池を作るなどして以前にも勝る広大に神域にしたといい、また南北朝時代の第96代・後醍醐天皇の建武年間には兵火に遭って再び衰微しますが、室町幕府第3代将軍・足利義満が神馬を奉納するなどして神域を復活させたといいます。
江戸時代にも徳川幕府の庇護を受け、第108代・後水尾天皇の慶長年間にも社殿の修復が行われたほか、5代将軍・徳川綱吉の時代には境内に社殿復興のための大相撲の興行が行われたと伝えられています。
そして幕末の1864年(元治元年)の「禁門の変(蛤御門の変)」の兵火の際には、社殿がことごとく焼失して再建もおぼつかなかったといいますが、第121代・孝明天皇が再建のために金150両と菊の紋入りの提灯一対を下賜されるなどの助力を得て、1866年(慶応2年)に無事に再建を果たしています。
近年、宮司が亡くなったのを機に地元の「尚徳学区自治連合会」が歴史ある神社を学区で守るために宮司の後継者と協議し、諏訪神社の宗教法人を解散するとともに諏訪町町内会が所有することとなります。
そして京都府総務部文教課に相談の上で京都市に許可申請を提出し、2008年(平成20年)4月に地域団体としての許可が下り、社名も「下諏訪諏訪神社」から「尚徳諏訪神社」に改称され、日本では初めてとも思われる町内会の所有する神社となって現在に至っています。
地域の産土神として信仰を集め、祭典は1月の元旦祭、3月の祈年祭、9月の例祭(秋季大祭)、そして11月の火焚祭と年に4回ありますが、中でも9月に行われる「秋季大祭」では中学生と小学生の子供たちによる子供神輿が学区を練り歩き大いに賑わいます。