京都市下京区烏丸通七条下る東塩小路町、京都の玄関口である京都駅前にそびえ立つ京都タワーの木津屋橋通を挟んで北隣にある家電・パソコン・カメラ・写真用品などを販売する家電量販店「ヨドバシカメラ」の京都店。
この点「株式会社ヨドバシカメラ」は東京都新宿区新宿五丁目に本社を置く国内大手の家電量販店の一つで、創業者は藤沢昭和(ふじさわてるかず 1935- )。
1935年(昭和10年)、藤沢良作の長男として長野県諏訪郡本郷村(現在の富士見町)に生まれ、戦後間もない1949年(昭和24年)頃から、父の良作は長野で農業のかたわら、東京に出てカメラ関係の行商を始めたといい、現在のヨドバシカメラの基礎を築きました。
これが自然と息子へと引き継がれ、1960年(昭和35年)4月に東京の渋谷区本町にてヨドバシカメラの前身となる「藤沢写真商会」を創業。その後1967年(昭和42年)7月に新宿区淀橋、現在の西新宿の地に「淀橋写真商会」を設立、1974年(昭和49年)10月に社名を現在の「ヨドバシカメラ」に社名を変更し現在に至っています。
2020年(令和2年)7月1日付けでヨドバシカメラの社長を退任し、代表権のある会長に就任し、持ち株会社ヨドバシホールディングスの社長は引き続き務めています。
当初は卸売業として開業しましたが、70年代に入った1971年(昭和46年)2月に小売部門を創設して本格的に小売販売を開始。
当時カメラは高級品で定価販売が当たり前だった中、多くの人に使ってもらいたいとの気持ちから卸売価格での販売を開始し、写真学校の生徒を中心に口コミで評判を集め、1975年(昭和50年)11月、本格的なカメラ専門店として新宿西口本店をオープンするに至ります。
そして知名度を高めるために作られたのが現在でもテレビCMや館内放送で流れて馴染みとなっている「ヨドバシカメラの歌」と呼ばれるCMソングで、南北戦争の時代に北軍の行軍曲として作られ様々な替え歌の原曲として世界的にも親しまれているアメリカの民謡「リパブリック讃歌(The Battle Hymn of the Republic)」、日本では「ごんべさんの赤ちゃんが風邪引いた」のフレーズでお馴染みの「権兵衛さんの赤ちゃん」や、「一人と一人が腕組めば」のフレーズではじまる「ともだち讃歌」のメロディーを簡単な替え歌にしたものですが、耳に残りやすい替え歌のCMソングは子供たちの間を中心に大ヒットし、社名の浸透に大いに役立ちます。
また「まあるい緑の山手線、真ん中通るは中央線、新宿西口駅の前、カメラはヨドバシカメラ」という歌詞は創業者である藤沢昭和自らの作詞だといいますが、、歌詞に山手線と中央線の通る新宿駅の西口にあることをさりげなく盛り込むことで、地理に不案内な客にも安心して行ける店としてPRに成功。
そしてこのCMソングはその後オープンした各地の店舗でもその土地仕様にアレンジされた替え歌が作られ、地域の人々にお馴染みの曲として親しまれています。
もう一点特筆すべき点として、まだスタンプカードが主流であった1990年(平成2年)、客に利益を還元する仕組みとして、コンピューターで管理できるバーコードを用いた「ポイントカード」を日本で初めて導入したことでも知られています。
店側にとっても値引き作業の負担の軽減というメリットがある一方で、客側にとっても繰り返し利用することで利益が還元されるというこのシステムは客にも「新しい、うれしいサービス」として喜ばれ、翌年に第1回流通システム大賞奨励賞を受賞し、現在数多く発行されているポイントカードの先駆けとなりました。また現在ではクレジットカード機能付きのポイントカードの発行も行っているといいます。
当初はカメラや写真用品を主力商品とするカメラ専門の小売店でしたが、家電も扱って欲しいという客の声やニーズにも応える形で時計やビデオ、ラジカセ、家電など取り扱い商品を拡大していき、現在はパソコン・AV製品・玩具やブランド品なども扱う店として広くしられるように。
また1997年3月に仙台駅前の国鉄清算事業団の貨物ヤード跡地を買収し、従来の仙台駅前店・仙台東口店を統合する形でオープンした「マルチメディア仙台」を皮切りに、従来よりも店舗面積を大幅に広げた「マルチメディア館」と呼ばれる大型店舗の新規出店も多く見られるようになっています。
新宿の店舗を成功させて以降、80年代以降は横浜や東京上野、八王子などにも店舗を展開し、1991年には関東地区以外では初となる宮城県の仙台にも出店、以後も札幌や新潟、千葉などにも出店するなどし、主に関東地方を中心に店舗展開がなされていましたが、2001年(平成13年)11月には大阪梅田に「マルチメディア梅田店」をオープンさせて西日本地域にも初進出すると、2002年(平成14年)には博多店をオープンさせて九州地域にも進出し、2015年(平成27年)には名古屋にも進出するなど、徐々に関東地方以外でもヨドバシの店舗を目にすることができるようになっています。
またインターネット販売サイトについても他社に先んじて積極的に展開しており、1998年(平成10年)からインターネットショッピングサイト「Yodobashi.com(当初はYodobashi.co.jp)」を開設し、現在インターネットショッピングではAmazon.co.jpに次ぐ日本国内2位の地位を占めています。
そして「マルチメディア京都店(京都ヨドバシ)」は2010年(平成22年)11月5日に、JR京都駅の烏丸中央口前にあった近鉄百貨店京都店(プラッツ近鉄京都)の跡地に自社ビル「京都ヨドバシビル」を建設する形でオープンしました。
京都駅の烏丸口前に位置する当地は、元々は東本願寺が保有していた土地でした(後の1992年に近鉄グループに売却)が、1920年(大正9年)1月に丸物の創業者である中林仁一郎(なかばやしにいちろう 1891-1960)が土地を借り上げて「京都物産館」を創業。
1931年には百貨店「丸物(まるぶつ)」と名前を変え。昭和30年代には全国にチェーン展開し10店舗を数えるなど全盛期を迎えましたが、1960年(昭和35年)4月に社長のの中林仁一郎が70歳で急逝したことで強力なリーダーを失った上、折からの百貨店法の成立による出店難も相俟って業績が低迷し、東京や九州などからも撤退を余儀なくされます。
京都店はそんな中でも営業を続けていましたが、1977年(昭和52年)5月に近畿日本鉄道(近鉄)の資本参加を受けてそのグループ傘下となり、店名も「京都近鉄百貨店」と改められ、名門丸物の名は消滅します。
その後は近鉄百貨店グループの下でいったんは再興されたかに見えましたが、90年代に入るとバブルの崩壊に加えて1997年(平成9年)に京都駅ビルにライバル百貨店となる「JR京都伊勢丹」が開業したのが決定的となって売り上げが減少。
これを受けて2000年(平成12年)3月には伊勢丹との差別化を図るために若い年代を狙ってソフマップなどをキーテナントとする複合商業ビル「プラッツ近鉄」へと業態を変更して売り上げの改善を図りますが、烏丸を中心に複合施設が相次いでオープンしたこともあって経営悪化は止まらず、2007年(平成19年)2月28日に閉店となり、「京都物産館」以来の90年近くにわたる歴史に幕を閉じ、1926年(大正15年)10月に渡辺節の設計によって建造された名建築、文化的な価値も高かった「丸物」ゆかりの百貨店の建物も同年秋に取り壊されました。
そして跡地には2005年(平成17年)に土地を買収し取得ていたヨドバシカメラが自社ビル「京都ヨドバシビル」を建設し「マルチメディア京都店」を2010年11月5日にオープンさせ現在に至っています。
なお建物はすでに取り壊されていますが、丸物・近鉄百貨店の名残りを残すものとしては、京都駅地下通路の柱のヨドバシカメラの案内看板の中に「近鉄百貨店・丸物跡」との付記があるほか、丸物が近鉄グループ入りした後の1974年(昭和49年)に設置されたという鐘が「元気の出る鐘」と命名されてヨドバシカメラの地下エントランスの出入口の両脇に展示されています。
開店と同時に竣工となった「京都ヨドバシビル」は地上8階・地下2階建ての建物で、高さが30.95m、延べ床面積が72,990平方メートルを誇る巨大な商業ビルとなっており、7・8階・屋上に510台収容の大型駐車場を完備し、京都駅にも直結し快適にアクセスが可能となっています。
主力テナントとしてヨドバシカメラが地下1階から3階に入居するほか、地下2階が食品スーパー、雑貨店などを集めた専門店フロア「YodoChikaB2F」、4・5階が主に衣類・小物の専門店を扱うファッションフロア、そして6階はレストラン街「Yodobashi The Dining」および専門店「トラベル&ブック・カフェ」となっており、総店舗数は90以上、最新家電はもちろん、ファッションやグルメなども楽しめるラインナップとなっています。
最後に「ヨドバシカメラ」の社名は創業場所の地名「淀橋」に由来した名前だということです。
「淀橋(よどばし)」は現在の新宿駅西口の一帯を指す地域の旧称で、元々一帯は青梅街道の南側に広がる閑静な農村であったものが、新宿駅の開業とともに、駅周辺を中心とする繁華街が急速に形成され、更には1960年代後半以降の淀橋浄水場跡を開発する新宿副都心計画によって超高層ビルが林立する都会的な街となったといい、1990年(平成2年)に東京都庁もこの地に移転されていて、現在では「副都心」と呼ばれる東京都の中心部の一つとなっています。
その淀橋の地には1889年(明治22年)に角筈村と柏木村が合併し「淀橋町」が誕生したのを経て、1932年(昭和7年)10月に東京市が拡大して35区に再編された際、淀橋町・大久保町・戸塚町・落合町を東京市に編入し4町の区域をもって「淀橋区」が発足。
その後1947年(昭和22年)に東京が23区に再編された際に「四谷区」「牛込区」「淀橋区」の合併により「新宿区」が誕生しますが、「淀橋」の地名はその後も使われていたものの、一帯は現在は主に「西新宿」と呼ばれています。
以上のように現在の西新宿、東京都庁のある一帯は1947年(昭和22年)までは「淀橋区」に属しており、そこでカメラ販売を始めたため客が「淀橋のカメラ屋」と呼んでいたのをそのまま社名としたのだといいます。
ちなみにその淀橋の地名の由来は東京都新宿区と中野区の境の神田川に架かる青梅街道上の橋「淀橋」にちなんだものです。
この点、橋は現在も神田川に架かっており、橋のたもとには「淀橋の由来」の説明板が建てられているのですが、それによれば「淀橋」の名は江戸時代に3代将軍・徳川家光が名づけたものだということです。
淀橋はその昔「姿見ずの橋」とか「いとま乞いの橋」と呼ばれていました。
このあたりで中野長者といわれていた鈴木九郎は、自分の財産を地中に隠す際、他人に知られることを恐れ、手伝った人を殺して神田川に投げ込んだのだといい、九郎と橋を渡るときには見えた人が、帰るときには姿が見えなかったことからその名が付いたといわれています。
そして江戸時代の初めのこと、鷹狩りのためにこの地を訪れた家光は、この話を聞き、不吉な話でよくないから、景色が大坂の淀川を思い出させるので「淀橋」と改めるようにと命じたといい、それ以降その名に定まったといわれているそうです。