京都市下京区東洞院通塩小路下ル東入 東塩小路町、JR京都駅北側の烏丸口を出て、すぐ東側にある浄土宗捨世派の寺院。
1538(天文7年)、円誉道阿(えんよどうあ 1496-1584)によって捨世派一心院の末寺として創建。
寺伝によると、天文年間(1532-54)、開山・円誉が、北山の中川の里で念仏修行の時、庵に遊びに来る多くの猿たちの首に「南無阿弥陀仏」と書いた名号を結びつけたお守りを災難除けと仏縁結縁のために授けたところ、ある日、漁師に命を狙われた猿がそのご利益で危難から救われ、一方で猿の命を狙った猟師・完又十郎が、その奇縁から改心して正行院に出家して僧となり、今まで殺生してきた動物たちの供養をして生涯を終えたといい、その故事から「災難が去る(さる)」の「猿寺」と呼ばれるようになりました。
本堂は寛永年間(1624-44)、伏見城が壊された際に徳川家光によって寄進された伏見城の遺構で、膝の上に合掌猿を乗せた円誉上人の座像がまつられているほか、800頭にもおよぶ猿の人形が飾られているといいます。
そしてその中には「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿のほか、釈迦が説いた仏道「八正道」を猿が体で表した「見ざる、思わざる、言わざる、為さざる、合掌ざる、持たざる、忘れざる、聞かざる」の八猿の像もあるといいます。
以前は「通称寺の会」に所属し「猿寺」として一般公開されていましたが、諸事情により近年脱会し現在は非公開寺院となっており、門が開いている時に奥に見える庫裏の前の2つの像が猿寺の面影を残すのみとなっています。
その一方で門前にある地蔵堂に祀られている「輪形地蔵」への参拝は可能となっています。
七条通東洞院から伏見に至る「竹田街道」には街道を行き来する牛馬車の車輪の通行を楽にするため敷石が施され、その石を村人は「輪形の石」と呼んでいましたが、1600年(慶長5年)3月16日の朝、信心深い村人の夢にお告げがあり、村人がその輪形の石の一つを掘り起こしてみるとそれは立派なお地蔵様であったといい、掘り出された地蔵尊は「輪形地蔵」と呼ばれ、車馬の危難を救い「交通安全」を守ってくれるお地蔵さんとして広く信仰を集めたといい、交通安全守護のため長らく竹田街道沿いに安置されていましたが、明治初年の「辻堂廃止令」により現在地に移されたといいます。