「京の旅館通り」は京都市下京区、京都駅のすぐ東側から東本願寺の門前東側にかけて通る不明門通の通称。
この点「不明門通(あけずとおり)」は烏丸通の一筋東を南北に通る通りの名前で、北は松原通上るにある平等寺(因幡薬師)の門前から、南は京都駅の北を東西に通る塩小路通までの約1.3kmの長さのある通りです。
烏丸通と東洞院通の間には平安京では通りは存在せず、豊臣秀吉による京都改造計画(天正の地割)で通りが新設されていますが、この点、丸太町通から姉小路通までは「車屋町通(くるまやちょうどおり)」が南北に通っており、その後三条通から高辻通までは主だった通りはなく、松原通上るにある平等寺の門前から不明門通がスタートし、京都駅北の塩小路通まで続いていきます。このことから「因幡堂突抜」「薬師突抜」とも呼ばれていたといいます。
ただし途中の東本願寺の東側では、烏丸通の拡幅により敷設された京都市電烏丸線が、門の直前の東本願寺の私道を避けて東に回り込むようにして敷設されたことから、不明門通と烏丸通が一体となっている部分が見られます。
実際の読みである「あけずのもんどおり」と呼ばれることは稀で、地元では一般的に「あけずどおり」と呼ばれていますが、その名の由来は北端にある因幡薬師堂(平等寺)の門がかつては常に閉ざされていて開かれることがなかったからであるといいます。
江戸初期の1602年(慶長7年)、本願寺(西本願寺)から分離する形で東本願寺が烏丸七条上るに建設されると、不明門通の六条通と七条通の間では東本願寺が近いことから旅館や各地の門徒の宿泊所であった詰所、仏具店などが多く立ち並ぶようになり、更に明治期に入り1877年(明治10年)に京都駅が開設されて以降は、七条通以南でも京都駅に近いことから京都観光に訪れる観光客を目当てとする旅館が多く立ち並ぶようになり、その結果として京都駅前から東本願寺の門前までの不明門通には旅館が多く集まることとなりました。
現代に入り京都の玄関口でもある京都駅の周辺には現代的なホテルも数多くオープンしていますが、京都駅寄りの不明門通は裏町といった風情の趣のきある旅館街が今も残っていて、通称「京の旅館通り」と呼ばれています。
また東本願寺の東を通る花屋町通から七条通にかけての不明門通については、本願寺門前の歴史的な景観が残されていることから「本願寺・東寺界わい景観整備地区」として京都の伝統的景観保全地区にも指定されています。