京都市下京区塩小路通堀川東入、京都駅の北側を東西に走る塩小路通を西へ進んですぐの所に本社を置く情報・制御システムメーカーで、産業用オートメーション機器に強みを持つ世界的に知られる大手電気機器メーカー。
1933年(昭和8年)5月10日に創業者の立石一真(たていしかずま 1900-91)、2人の従業員のわずか3名で立ち上げられ、1/20秒で正確に撮影できるという当時としては高精度の「レントゲン撮影用タイマ」を開発後、大阪市都島区東野田に「立石電機製作所」として創業したのがはじまり。
その後1944年(昭和19年)に大阪より京都市右京区花園の地に移転。
第2次大戦の戦災が広がる中、 生産設備の分散化のために京都の同地にあった映画撮影所「双ヶ丘撮影所」を買収して京都分工場建設に着手し、終戦の年の1945年(昭和20年)に完成しますが、建設の最中に空襲により大阪の本社工場の全施設が焼失したため、以後この御室の地が本社と定めされました。
そして1948年(昭和23年)5月19日には「立石電機株式会社」として会社設立もなされていますが、とはいえ創業当初のオムロンはタイマーや保護継電器といったBtoB向けの電気機器を主力事業としており、島津製作所などの大企業の下請けメーカーにすぎなかったといい、このため創業当初の業績は安定せず、戦後不況などで資金繰りの悪化によって倒産の危機に陥ったこともあるといいます。
そんな中、立石一真がオムロンを発展させるために着目したのが「オートメーション」だったといいます。
「オートメーション」とは、機械やコンピュータ、ロボットを使用して従来人間によって行われていた作業を無人化することで、人間による作業ミスの削減や、作業効率の向上、そして人々を危険な作業環境から解放することで安全性の向上を図るもので、中心となるのは工業用の計測機器や自動制御機器、数値制御工作機械、コンピュータ、自動運搬機械などの技術でした。
1952年(昭和27年)、立石は産業能率短期大学の創設者にして日本で最初の経営コンサルタントとして活躍した上野陽一(うえのよういち 1883-1957)の講演にて、戦時中のアメリカでは作業員が一人もいないのに、材料を供給すると立派な製品となって出てくるという素晴らしく進歩したオートメーション工場ができているという話を耳にすると、翌1953年には視察団に参加してアメリカのオートメーションの進展を目の当たりにし、帰国後すぐにオートメーション機器の開発を指示します。
そして1960年(昭和35年)には当時最先端のトランジスタを用いた世界初の「無接点近接スイッチ」の開発に成功します。
この点、有接点と無接点のスイッチの違いは、内部にメカ的な接点があるか、無いかで、有接点の場合は機械的な接点でオンオフされるという単純な構造のため、安価なコストで製造できる反面、衝撃により動作が不安定になったり、寿命が無接点と比べて早く故障してしまうデメリットがありました。
その一方で、無接点はON/OFFスイッチに磁気抵抗素子を用いたセンサスイッチで、機械的な接点はなく、物理的に接触しない分寿命が長く、衝撃にも強いメリットがある一方で、コストが割高になるというデメリットもあり、頻繁に故障するような箇所や、故障すると装置に重大な影響を及ぼす箇所、すなわち電子回路で高速度の断続を必要とする場合や引火性ガス中でのスイッチングなどに適している技術です。
この無接点スイッチの成功によって中小企業から「オートメーション」の主力メーカーに急成長を遂げると、1962年(昭和37年)には株式上場も果たしています。
またこれと並行して1959年(昭和34年)1月には全商品に使用している商標(ブランド)を「OMRON(オムロン)」と制定していますが、これは世界への飛翔を期し本社が置かれていた京都花園の地名「御室(おむろ)」 にちなんだものだといいます。
この点「御室」とは、元々は同地にある現在は世界遺産にもなっている名刹・仁和寺のことを指した言葉でしたが、やがて付近一帯の地名になったといわれています。
こうしてオートメーションの時代に勢いづいたオムロンは、1960年代を通じてオートメーションを社会システムとして実装する企業として知られるようになりますが、更に1963年にはサイバネティクスを応用し、オートメーションとコンピューターを組み合わせた「サイバネーション」という新技術を開発します。
この点「サイバネティクス理論」とは当時マサチューセッツ工科大学の教授であったアメリカの科学者・ノーバート・ウィナー(Norbert Wiener 1894-1964)によって提唱された理論で、博士はこの理論を渡り鳥の姿を見て閃いたといいます。
何千キロも離れた先へと旅をする渡り鳥が、天気や気圧、風向きなどの気象条件が毎回異なる中で正確に目的地へとたどり着くことができるのは何故なのかとの疑問を呈し、弓矢や弾丸のように最初に方向を定めて出発して直線的に飛ぶのではなく、途中で何度も軌道修正をしながら飛んでいるのでは、そしてその軌道(制御)は、星や山などの周辺環境と通信しながら行われているのではないかと考え、1947年に「通信と制御」という論文を発表。
すなわちコミュニケーション(通信)して結果にフィードバックすることで小刻みに軌道を修正(制御)していけば、途中の条件の変化に惑わされずに目的にたどり着けるということを体系化した理論ですが、この理論は生物や機械の種類の如何にかかわりなく、生物も機械も外界との関係に対応しながら目的達成のための最適行動をとるように自己制御しているとして生体と機械における通信と制御を統一的に扱うものであり、今でこそコンピュータ技術の応用とも結びついて、各種の情報システムやロボット技術などの実用化などに大いに貢献し、また自動制御系の身体の機能を電子機器をはじめとした人工物に代替させたものが「サイボーグ」技術としてよく知られるようになっていますが、発表当時はもし科学に応用されれば人間は不要となり、労働者が失業の憂き目に遭うとしてアメリカの労働組合から猛反発されるなど、世界に衝撃を与えたといいます。
しかし立石はいかに科学技術が発達し高度化されたとしても、それを駆使するのは人間であり、またシステムとして考えたとき、いかにすぐれたシステムでも、人間の介在をなくすことはおそらく不可能であり、機械にできることは全部機械に任せて無人化し、思想や創造といった人間でなければできない仕事を人間がやる。それが最も人間らしい仕事であるという思想に立ち、サイバネティクスを応用しオートメーションとコンピューターを組み合わせた「サイバネーション」という新技術を開発し、さらにその技術転用によって、自動改札機や交通管制システム、銀行ATMといった今日の我々の生活に欠かすことのできないシステムの開発にも成功していきます。
交通事故の防止や交通渋滞の緩和といった交通制御のニーズが高まる中、1964年4月に世界初の電子式自動感応式信号機を開発して京都市の河原町三条交差点にて導入実験に成功した後、同年に東京の九段三丁目交差点に設置したのを皮切りに、信号機制御の役割や範囲を次々と進化させ、交通管理システムの基礎を形作りました。
また社会の様々な分野で自動化・省力化への期待がますます高まる中、大阪大学や近畿日本鉄道と共同で「自動改札機」の開発に着手。
実用化された自動改札機は、千里ニュータウンの通勤対策および1970年(昭和45年)に開催される大阪万国博覧会(大阪万博)の大量鉄道輸送対策として、1967年(昭和42年)3月に京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)千里線の終着駅である北千里駅に乗車券販売機、定期券穿孔機、紙幣両替機と共に試行設置されました。
これが世界初の自動改札による「無人駅システム」だとされていて、その試行を経て1973年(昭和48年)にオムロンが独自開発した第3世代の試作機は現存する最古の自動改札機として機構部分のみが保存され、2010年(平成22年)に日本機械学会より「機械遺産」に認定されたほか、2007年(平成19年)には電気・電子・情報・通信分野における世界最大の学会である電気・電子学会IEEE(The Institute of Electrical and Electronics Engineers, Inc.)より「IEEEマイルストーン賞」を大阪大学、近鉄、阪急とともに共同受賞しています。
この他にも1965年(昭和40年)に米国のオートマチック・キャンティー社の要請に応えて世界初の「クレジットカード用自動販売機システム」の開発に成功したのを皮切りにカードシステムの開発に取り組み、1969年(昭和44年)には磁気カードによるオフラインの現金自動支払機(キャッシュ・ディスペンサー)を住友銀行にて、また1971年(昭和46年)には世界初のオンライン・キャッシュ・ディスペンサーを三菱銀行本店で稼動させるなど、現代の磁気カードシステムによるキャッシュレス時代の基礎を築いたほか、立石の妻の病気治療をきっかけに知り合った「西式健康法」の創始者・西勝造の健康法をヒントに、人間を一つのオートメーション工場と仮定してサイバネティクスを生体に応用することを思いつき、誰もが病気を患う前に常日頃から自らの健康の度合いを測定できるようにするための一般向けの電子健康機器の開発に取り組み、1972年の体温計第一号機となる「電子体温計MC-320」を皮切りに1983年(昭和58年)に発売された小型電子体温計「けんおんくん」などの電子血圧計や電子温度計、体重計などを世に送り出し、ヘルスケアの部門でも世間一般に広く知られるようになど、大企業となった現在でも世の中にない製品を創り出す「ベンチャー精神」を変わらず持ち続けている会社です。
そして同社の社名は1948年(昭和23年)の会社設立以降、長らく「立石電機株式会社」で、OMRONは1959年(昭和34年)1月の制定以来同社の商標として使用されてきましたが、「TATEISI」の発音が海外では難しいということもあり前々から変更を考えていたようで、第3代社長の立石義雄(1939-2020)の時代の1990年(平成2年)1月1日に現在の「オムロン株式会社」に変更されています。
また本社についても会社規模の拡大に伴って2000年(平成12年)に京都駅にほど近い複合機能拠点「オムロン京都センタービル」に移転されていて、御室の旧地は京都市住宅供給公社によって住宅地「和(なごみ)のまち御室」として再開発されていますが、住宅地の傍らの土堂公園前には「オムロン発祥の地」と刻まれた創業記念碑が建立され、その名残りをとどめています。
そして本社センタービルの西隣には「オムロン京都センタービル啓真館(けいしんかん)」と呼ばれる「ぼんぼり」をイメージしたという独創的な形のガラス張りのビルも建てられていますが、この建物の2・3Fにはオムロンの歴史と技術をテーマとする企業ミュージアム「オムロンコミュニケーションプラザ」も開設されていて、事前に予約すれば誰もが無料で入場し見学することができます。