京都府船井郡京丹波町本庄・坂原・下粟野・細谷、京都市の北に位置する京丹波町の旧和知町の市街地の奥まった所に鎮座する4つの神社。
「阿上三所神社」は和知地区の本庄・坂原・下粟野・細谷の各集落にそれぞれ1社ずつ計4社あり、このうち中世和智庄の中心地であった本庄村に鎮座する本庄の阿上三所神社が最古の神社で、4社ある阿上三所神社の総社とされていて、坂原・下粟野・細谷の3社は本庄のものから分社されたものだといいます。
「本庄阿上三所神社」は、京丹波町の和知地区本庄、JR和知駅のすぐ北に鎮座する神社で、本庄・大倉・中山・小畑の氏神。
祭神は伊勢神宮外宮に祀られている食物を司る女神・豊受比賣命(とようけひめのみこと)のほか、高皇産霊尊の娘で大国主命の妃神であり、保津川の名の由来にもなっているといわれる三穂津比賣命(みほつひめのみこと)、そして八幡神として知られる誉田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)の3柱。
創建の詳しい由緒は不明ですが、言い伝えによれば崇神天皇の39年、豊受比賣命が摂津より丹波に還られる途中、当地に立ち寄られて五穀の種と蚕とを授けられたことにより、毎年正月19日に農蚕に由ある特種の祭礼を行うようになったのが創祀といいます。
そして記録によれば平安初期の貞観年間(859~877)以前は後方の天王山の山頂に鎮座していたといい、鎌倉後期の1306年(徳治元年)に現在地に遷座、中世には仁和寺領和知荘があり、同荘の鎮守として祀られていたといいます。
創建当初は「阿上神社」と称していましたが、後に地頭の片山氏によって1350年(観応元年)に坂原、また1382年(永徳2年)には下粟野へそれぞれ分霊して「阿上三所大明神」と称されるようになったといい、明治維新の時に社号を「阿上三所神社」と確定させ、戦前は郷社、神饌幣帛料供進神社でもありました。
現在の本殿は江戸後期、天明年間の火災の後、1802年(享和2年)に再建されたもので、一方の拝殿は建築年代は不明ですが1908年(明治41年)に改修された記録が残っているといいます。
行事としては毎年10月の第2日曜日に町内4カ所にある阿上三所神社で開催される「阿上三所神社大祭」が知られていて、本庄では神輿や獅子舞が氏子区域を練り歩きます。
「坂原阿上三所神社」は、京丹波町の和知地区坂原(さかばら)、JR和知駅より北へ1km余り、由良川の北側を川に沿って続く府道59号市島和知線そばに鎮座する神社。
祭神は伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)・伊邪那美尊(いざなみのみこと)・国常立尊(くにのとこたちのみこと)の3柱。
1350年(観応元年)、地頭の片山氏によって本庄の阿上神社より分霊を勧請し創建。
現在の社殿は江戸後期の1835年(天保6年)の再建で、こけら葺きの三間社流造で、装飾細部や妻飾りが繊細で現在も良い状態で保存されており、2005年(平成17年)には本殿が府の指定文化財、拝殿が府の登録文化財となっています。
その他にも境内には樹齢700年以上と推定されるケヤキのほか、フジ、イチイガシ、そしてもう1本のケヤキといずれも樹齢100年を越えていると思われる4本の巨木が聳えるように建っており、「坂原阿上三所神社四大巨木」として「京丹波町指定天然記念物」に指定されています。
毎年10月の第2日曜日に町内4カ所にある阿上三所神社で開催される「阿上三所神社大祭」では、坂原では天狗舞いという神事が行われます。
「下粟野阿上三所神社」は、京丹波町の和知地区下粟野、JR和知駅より直線距離にして北へ5km余りの所に鎮座する神社。
中世は土豪和智三人衆の一人である粟野氏の本拠地であった下粟野の氏神。
本庄の阿上三所神社の由緒書によれば1382年(永徳2年)に分社とありますが、当社に現存する最古の棟札により、1383年(永徳3年)に創建されたと推知され、古くは「阿上三所大明神」と称したといいます。
本殿に祭神として伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)・伊邪那美尊(いざなみのみこと)・国常立尊(くにのとこたちのみこと)の3柱を祀るほか、境内社として広峰神社に広峰大神、大神宮に天照大御神、稲荷神社に宇賀魂命、愛宕神社に火産霊命が祀られています。
祭事は年に大小9つの祭典が執り行われ、中でも毎年10月の第2日曜日に町内4カ所にある阿上三所神社で開催される「阿上三所神社大祭」では、まず宵宮祭にて年番氏子有志が演芸などを奉納した後、大祭では神楽と呼ばれる獅子舞が奉納されます。
そして神輿巡行の最後には長く伝承されているという太鼓を疫病や悪霊に見立て、逃げる太鼓を神輿が追いかけるという「五穀豊穣・無病息災」を祈願した勇壮な儀式が披露されます。
「細谷阿上三所神社」は、京丹波町の和知地区細谷、JR和知駅より直線距離にして北へ5km余りの所に鎮座する下粟野阿上三所神社のある下粟野の更に奥、長老ヶ岳の麓に鎮座する神社で、細谷の氏神。
祭神は伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)・伊邪那美尊(いざなみのみこと)・国常立尊(くにのとこたちのみこと)の3柱。
1886年(明治19年)の火災によって社殿および棟札を焼失しており、現在の社殿はその後の1891年(明治24年)に再建されたものです。