京都府相楽郡和束町原山、京都府南部の綴喜郡宇治田原町と相楽郡和束町の間に位置する鷲峰山(じゅうぶざん/じゅぶせん)に境内を持つ真言宗醍醐派の寺院で別格本山。
山号は鷲峰山(じゅぶせん)、本尊は弥勒菩薩。
寺の創建は古く白鳳時代の675年(白鳳4年)9月に役小角(えんのおづぬ 634-701)(役行者)の開基と伝わり、その後奈良時代の722年(養老6年)に越後の白山行者である越智泰澄(おちたいちょう 682?-767?)によって中興されたといいます。
その後、平城京においては北東の方角、丑寅の鬼門の位置にあることから、鬼門封じのために第45代・聖武天皇(しょうむてんのう 701-56)によって堂が建てられ、国家を守るための勅願寺とされたと伝えられています。
鷲峰山は南山城地域の最高峰で標高684.5m、巨岩や奇岩が連なり、大和の大峰山とならぶ二大霊峰の一つとされ、大和の大峰山に対し「北大峰」と称されるなど山岳宗教の拠点、修験道の霊場として栄え、良弁(ろうべん)、行基(ぎょうき)、鑑真(がんじん)や空海(くうかい)、最澄(さいちょう)らの錚々たる名僧たちもこの地にて修行をしたといわれています。
また鎌倉時代には、第92代・伏見天皇(ふしみてんのう 1265-1317)が退位後にこの寺にて僧侶となり、伽藍や多宝塔が建立されるなど寺領は拡大し、最盛期には山内に58もの坊舎を有するほどの繁栄ぶりであったといいますが、鎌倉末期の1331年(元弘元年)9月、第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう 1288-1339)が計画した鎌倉幕府討滅のクーデター「元弘の乱」の際、鷲峰山を経て笠置へと落ちのびていった後醍醐天皇の後を追う鎌倉幕府軍によって焼き討ちされ、更に1340年(暦応3年)の出火によって多くの堂塔を焼失したといいます。
1361年(康安元年)に光弁により再建されたものの、室町後期の1518年(永正15年)に再び出火すると、その後は戦乱もあり往時の壮大な伽藍が再建されることはなく、その代わりに堂や坊舎の跡地には1523年(大永3年)に杉や檜が約2万本が植えられたといわれています。
そして江戸後期の1826年(文政9)に良寛によって諸堂が再建され、明治維新直後の廃仏毀釈の中で真言宗高野山金剛峰寺の所属となりましたが、現在は真言宗醍醐派の寺院となっています。
古い絵図では「西塔」「東塔」に分かれた山内に数多くの堂塔が描かれ「鷲峰山寺」と総称されていたようですが、現在の境内は鷲峰山の山頂を中心とした和束町側の一部のみ(3町弱)となっており、再建された本堂や山門、客殿、行者堂、大師堂などの建物がありますが、このうち1298年(永仁6年)に伏見天皇によって建立された「多宝塔」と、「正安2年(1300年)」の銘の残る「宝篋印塔」が往時の面影を伝え、いずれも国の重要文化財に指定されています。
この点宝篋印塔のある山頂は、奈良時代に寺を中興した越智泰澄が麓まで托鉢を飛ばして食料を得たという「空鉢の峰(くはちのみね)」伝承の舞台とされている場所で、晴れた日には頂上から遠く琵琶湖や比叡山を望むこともできるといいます。
また役行者が開基した寺院として古くから修験道の霊場とされ、今なお多くの霊跡が残り、豊かな自然に包まれた金胎寺は境内全体が国の「史跡」及び「歴史的自然環境保全地区」にも指定されており、とりわけ庫裡の背後から続く山の東方斜面は金胎寺の行場となっており、奇岩怪石が多く見られる特異な景観を呈していて、「行場めぐり」も可能となっていますが、遭難者も出るほどの危険で厳しい岩場のため、訪れる場合は入山ノートへの記帳や同行者の存在、充分な装備の確保などが重要となります。
金胎寺への参詣方法としては、まず和束町側からは奈良交通バスの「原山」バス停より南地区から境内まで続く東海自然歩道を進む方法があり、こちらでは途中に円形茶園や町を一望できる茶畑などの和束町を代表する見事な茶畑を眺めることができ、自然豊かなハイキングコースとして親しまれています。
また北の宇治田原町側からも立川大道寺地区や湯屋谷地区から登山道が続いており、こちらの登山道や山頂付近には金胎寺のかつての栄華を偲ばせる痕跡が多く残されていて、道中には坊舎跡や丁石や道標、歴代住職の墓地などを見ることができ、豊かな自然や歴史を感じることができるハイキングコースとなっています。
行事としては9月第1日曜日に「秋季大祭」が開催され、柴燈護摩やお茶供養などの法要が執り行われるとともに、普段は一般公開されていない多宝塔の内部などが公開されます。