京都府木津川市山城町平尾里屋敷、JR奈良線の棚倉駅のすぐ東に広がる鎮守の森に鎮座する神社。
正式名は「和伎座天乃夫岐売神社(わきにいますあめのふきめじんじゃ)」で、通称は「涌出宮(わきでのみや)」。
木津川市山城町の氏神で、綺田地区および平尾地区が氏子区域となっています。
一帯は「涌出宮遺跡」として古代遺跡の指定も受けている弥生時代の集落の跡で、境内からは当時使われていた石包丁などの石器や土器が数多く出土し、竪穴式住居跡も確認されているといいます。
社伝によると、奈良時代の766年(天平神護2年)、現在の三重県にあたる伊勢国渡会郡五十鈴川の舟ケ原から、天乃夫岐売命(あめのふさめのみこと)を勧請したのがはじまりとされ、主祭神の天乃夫岐売神の神名は他に見えませんが、天照大神(あまてらすおおかみ)の御魂の事を指し、畏れ多く神秘であるが故にこのように称したといいます。
その後、天照大神と素戔嗚命(すさのをのみこと)との誓約によって生まれになった神々であり、宗像三女神として知られる田凝姫命(たこりひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、瑞津姫命(たきつひめのみこと)の三神が同じく伊勢より勧請され併祀されました。
この点、神社の正式名は祭神の名から「和伎座天乃夫岐売神社(わきにいますあめのふきめじんじゃ)」といいますが、伊勢から天照大神をこの地に勧請したところ、一夜にして森が出現=涌き出して四町八反余りが神域となったことから、その神徳を称えて「涌出の森」と呼称されるようになったと伝わり、神社の名前も「涌出宮(わきでのみや)」の通称で知られています。
山城の国祈雨神十一社の一社として、昔から朝野の崇敬を集めてきた。清和天皇(859)や、宇多天皇(889)が奉幣使を立て、雨乞祈願をされたところ、霊験により降雨があったと記されている。
平安時代の927年(延長5年)にまとめられた当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧「延喜式神名帳」にも記載のある古社で、「祈雨神祭八十五座」「山城の国祈雨神十一社」の一つにも数えられているように、雨を降らせる神として朝廷からも崇敬され、清和天皇や宇多天皇も雨乞祈願の使者を遣わしたといいます。
幾度かの焼失と再建を経て、現在の本殿は江戸中期の1692年(元禄5年)の再建で、拝殿とともに京都府登録文化財に指定。
また1983年(昭和58年)4月15日にはイチイガシの古木に囲まれた「涌出の森」に鎮座する神社一帯が「和伎座天乃夫岐売神社文化財環境保全地区」として「京都府文化財環境保全地区」にも指定されています。
そして当社には近畿地方の近江・山城・大和によくみられる伝統的な氏子組織である宮座によって支えられた「宮座行事」が中世以来続いており、氏神祭祀の古風な儀礼をよく保存する典型的な例として重要であるとして、1986年に国の「重要無形民俗文化財」に指定されています。
与力座、古川座、歩射座(びしゃざ)、尾崎座、大座(おおざ)、殿屋座(とのやざ)、岡之座、中村座の8つの宮座があり、これらの氏子組織の運営によって2月の「居籠祭(いごもり祭)」、3月の「女座の祭」、9月の「あえの相撲」、10月の「百味の御食」と様々な行事が行われていますが、中でも2月に開催される「居籠祭(いごもり祭)」は天下の奇祭として有名です。
第8代・孝元天皇の皇子で、当時山城地方を任されていた武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)は第10代・祟神天皇(すじんてんのう)に対して反乱を起こして木津川で大激戦となりますが、敗れて討ち取られたといい、その記述は「古事記」にも「日本書紀」にも見られるといいます。
そしてこの反乱の後に疫病が大流行し人々を悩ませたことから、戦死者の霊を慰めるためにはじめられたのが居籠祭であり、南山城地方最古の祭りとして知られ、今の形になったのは室町時代頃と伝えられています。
その年1年の豊作を祈る農耕儀礼として毎年2月中旬に開催されており、「居籠る」とは外出を慎んで心身を清めるという意味で、かつての村人たちは居籠祭の神事の間は家に居籠って一切音を立てなかったといわれ「音無しの祭」とも呼ばれていたといいます。
祭は2日の第3土日の2日間、与力座、古川座、尾崎座、歩射座の4つの宮座により、室町期の農耕儀礼の古式に則って執り行われ、1日目には与力座による古川座、尾崎座、歩射座に対する饗応の後に大松明が燃やされ、2日目には同じく与力座による古川座、尾崎座、歩射座に対する饗応の後、お田植え祭でクライマックスを迎えます。