京都府久世郡久御山町市田珠城、久御山町の中央、京都南道路の新珠城交差点のやや東に鎮座する神社で、久御山町森宮東にある玉田神社の兼務神社の一社。
祭神は括目入彦五十狭芽命(いくめいりびこいさちのみこと)(垂仁天皇)、および和気清麻呂(わけのきよまろ)。
安土桃山時代の1585年(天正13年)の「市田玉城神社護法神社拜神宮寺巻」によれば、市田はかつて第11代・垂仁天皇(すいにんてんのう B.C.69-70)の宮城「珠城宮」のあった地で、天皇の崩御の後にその霊を開化天皇王子・日子坐王(ひこいますのみこ)の子・山代大筒城真若王(やましろおおつつきまわかのみこ)がこの地に祀ったのが当社のはじまりであり、纏向(まきむく)の皇居を珠城宮と称したことにちなんで「珠城神社」と称したといいます。
また平安初期の799年(延暦18年)に平安京遷都に尽力したことで知られる和気清麻呂(わけのきよまろ 733-99)が逝去した際には、藤原葛野麿(ふじわらのかどのまろ 755-818)が勅使となって「護法神社(護法善神)」とし、珠城神社に並べて神殿を造ったと伝わり、その後、僧・行賀(ぎょうが)が神宮寺を建て薬師仏を本尊とする「護王寺」とされたといいます。
その後、当社ならびに護王寺は1180年(治承4年)に兵火により焼失し、1185年(文治元年)に源頼朝(みなもとのよりとも)によって再建されたものの、戦国時代の1573年(天正元年)に「槙島の戦い」で再び焼失。
そして江戸時代には当社の祭神は現在の久御山町佐山に鎮座する雙栗神社(さぐりじんじゃ)に預けられていたようで、その間、市田村が1719年(享保4年)に神輿を造営し神事に参画した記録が残っているといい、更に明治期に入った1879年(明治12年)には正式に合祀され、1883年(明治16年)の「久世郡神社明細帳」でも雙栗神社の祭神の中にその名が見られます。
しかし市田地区の氏子・住民の願望と熱意により、1967年(昭和42年)10月に春日造の本殿と切妻造の拝殿が市田の旧地に再建されるとともに遷座が行われ、今日に至っています。