京都府長岡京市今里にある真言宗豊山(ぶざん)派長谷寺の末寺で、乙訓地域に現存する最古の寺院。
山号は大慈山(だいじさん)
法皇寺とも
「乙訓(おとくに)」は2000年前の弥生時代から多くの人々が住んでいた地域であり、地名の由来は諸説あるといわれていますが、葛野郡(かどのぐん)から分離して新しく郡を作るとき、葛野を「兄国」とし、新しい郡を「弟国」、すなわち「乙訓」としたとするのが有力な説。
「日本書紀」によると河内で即位した第26代・継体天皇が、518年(継体天皇12年)3月に都を「弟国宮(おとくにのみや)」に移しており、乙訓寺は当時の宮跡として有力視されている地域でもあります。
創建の詳しい経緯は不詳ですが、寺伝では飛鳥時代、推古天皇の勅願を受けた聖徳太子の開創と伝わり、勅願を受けた聖徳太子が、十一面観世音菩薩を本尊とする伽藍を建立させたと伝わっています。
この点、1966年(昭和41年)の境内の発掘調査において白鳳期の瓦を伴う建物跡が発見されており、瓦の年代から、長岡京造営以前、奈良時代の創建と推定され、また当時からかなりの規模の寺院を有していたことなどが判明しています。
784年(延暦3年)、桓武天皇がこの地に「長岡京」を造営した際には、京内七大寺の筆頭として大増築されていますが、これは唐の都・長安(西安)を模した都城づくりが進められる中で、都の地鎮として重要視されたためといわれています。
当時の境域は南北百間以上もあったといい、建てられた講堂は九間に四間と、難波京の大安殿と同じ規模のものでした。
ところが、785年(延暦4年)9月23日の夜に長岡京造営の中心人物であった藤原種継(たねつぐ)が暗殺される事件が発生すると、これが引き金となって長岡京遷都は中止され、都は「平安京」へと移ることとなります。
そしてこの事件に関連して桓武天皇の実弟で皇太子でもあった早良親王(さわらしんのう)が、桓武天皇より暗殺の首謀者と疑われて廃嫡となり、この寺に幽閉される早良親王事件が発生しますが、この際に親王が幽閉された場所として乙訓寺の名前が「日本紀略」に記録されています。
ちなみに早良親王はこの寺に幽閉された後、淡路への護送途中憤死。
それをきっかけに天皇の母や皇后の死、皇太子の重病、悪疫の流行、天変地異などの様々な事件が発生し、「怨霊のたたり説」も流布されるなど、都を恐怖のどん底に陥れることとなりました。
また平安初期に真言宗の祖・弘法大師空海が別当に任じられて一時住していたことでも知られています。
空海は嵯峨天皇によって鎮護国家の道場とされると、811年(弘仁2年)から翌年までこの寺の別当を務めました。
現在も八幡明神の霊告を受けて作ったとされる合体の像が現在の本尊・八幡弘法合体大師像となっているほか、境内に実る柑子を朝廷に献上するなどの事跡が残されています。
また別当として住している間に天台宗の祖として知られる伝教大師最澄が寺を訪れており、二人は密教について法論を交わしたとされ、この二人の出会いが、その後の日本仏教が大きく発展する要因となったといわれています。
その後も897年(寛平9年)に譲位した宇多天皇(うだてんのう)が法皇となると、この寺に行宮(あんぐう)=仮宮を置いて堂塔を整備し「法皇寺(ほうこうじ)」と称されるなど、平安京への再遷都が行われて長岡京が廃都となった後も大規模な伽藍を擁し、乙訓随一の大寺院として栄えました。
室町初期には内紛が原因で第3代将軍・足利義満によって僧徒が追放され、南禅寺の伯英禅師に与えられて一時期南禅寺の末寺となりますが、衰えたといえども十二坊あったといいます。
そして1568年(永禄11年)に戦国武将・織田信長による兵火で焼失した後、江戸初期の元禄年間(1688-1704)に護持院隆光(りゅうこう)により復興されると真言宗に復帰。
この点、隆光は長谷寺で修学の後に江戸に出ると、5代将軍・徳川綱吉の厚い信任を得て、将軍の祈祷寺・江戸護持院住職となった後、乙訓寺を請い受けて自ら住職となったといわれ、1693年(元禄6年)には綱吉の生母・桂昌院(けいしょういん)の外護を得て徳川家の祈願寺とされ、寺領100石が寄進されるとともに乙訓寺法度の制定、諸伽藍の再建と復興が尽くされました。
このために隆光は中興第1世とされています。
その後は明治の「廃物棄釈」、第二次世界大戦後の「農地改革」などの苦難の経過をたどるなど、栄枯盛衰を繰り返したものの弘法大師空海ゆかりの寺院として現在も「今里の弘法さん」として親しまれています。
また近年は「牡丹の寺」として人気を集めています。
その昔、豊山派総本山である長谷寺より2株が寄進・移植されたのがはじまりといい、歴代住職らの尽力によって年々数が増加して現在は約2000株。
毎年4月下旬から5月上旬にかけて大輪の花を咲かせ、普段は物静かな境内がこの季節になると多くの観光客・カメラマンで賑わいます。
その他の見どころとしては平安後期藤原時代の木造毘沙門天立像が国の重要文化財に指定されているほか、境内にあるモチノキは高さ9m、幹の周辺は約3.6mで京都府内でも屈指の大きさで、樹齢は推定400年から500年とされ、長岡京市の天然記念物に指定されており、寺のシンボル的存在になっています。
また「京都洛西観音霊場」の第6番札所となっているほか、毎年秋には「四国八十八箇所霊場お砂踏み」も開催されています。