樫原廃寺跡とは?(基本データ)
- 名前
- 樫原廃寺跡(かたぎはらはいじあと)
- エリア
- 松尾・桂・西京極
- ジャンル
- 建立・設立
- 7世紀半ば(飛鳥時代後期)
1971年(昭和46年)3月1日、国の史跡に指定 - アクセス
- 駐車場
- なし
- 拝観料
- なし
- お休み
- 特になし
- 拝観時間
- 見学自由
- 住所
- 〒615-8152
京都府京都市西京区樫原内垣外町 - 電話
- -
- FAX
- -
- 公式サイト
- 樫原廃寺跡 文化遺産オンライン
樫原廃寺跡 京都市情報館
京都市西京区樫原内垣外町、京都市西南部の樫原地域で発見された古代寺院の跡。
「樫原(かたぎはら)」は京都市の西南部、阪急桂駅の西南に広がる長岡丘陵の東麓に位置し、東西に走る旧山陰街道と山陰街道と西国街道(現在の山陽道)を繋ぐ重要な街道として南北に走る物集女街道(もずめかいどう)が合流する交通の要衝だった場所です。
江戸時代には本陣や旅宿が設けられ、京都から丹波を経て山陰へと通じる「旧山陰街道」の京都を出発して最初の宿場町として栄えたことでも知られています。
鉄道(山陰線)の開通や国道9号線の整備によって人と物資は車輌による輸送が中心となり、街道町としての賑わいは影を潜めましたが、往時を偲ばせる古い街並みが現在まで残されたことから近年になって注目を集めるようになり「西京樫原界わい景観整備地区」として景観の保存が図られています。
廃寺跡はその樫原の中心部よりさらに西南に位置し、周辺では「天皇の杜古墳(てんのうのもりこふん)」や「百々池古墳(どどいけこふん)」「一本松塚古墳」などの古墳時代の遺跡が多く発見されており、樫原が宿場町となるよりも遥か昔から開発が進んでいたと考えられています。
そして史跡の発見された場所は史跡公園として整備される前は竹薮と畑が広がる場所でしたが、奈良時代前期の瓦が出土することは戦前から知られていたといいます。
そして1967年(昭和42年)、京都市住宅供給公社による市営住宅の建設に伴い発見され発掘調査が実施された結果、遺構が発見され、寺名までは判明しなかったため、一帯の地名を冠して「樫原廃寺」と命名されました。
この点、樫原の地を含む山背国葛野郡は、5世紀頃からは渡来系氏族の秦氏の本拠地として開拓された場所であることから、今回の樫原廃寺も、秦氏に関係する寺院だったとも考えられています。
この時に発見された花崗岩の礎石は八角形の瓦積み基壇を持つ塔の跡だと分かり、更にその八角塔を中心に南側に基壇を持つ中門跡、中門の左右の伽藍の南面には回廊、東面と西面には築地が巡っていた跡も確認されたといいます。
これらの遺構の検出状況と現状の地形から、中門・塔・金堂・講堂などが南北に一直線上に並ぶ四天王寺と同様の伽藍配置(四天王寺式伽藍)で、出土瓦などから飛鳥白鳳期(7世紀半ば)に建立され、平安中期に廃絶したと推定されています。
そして遺存状況が極めて良く、国内の古代寺院では他に発見例の極めて少ない八角仏塔として注目を集め、建築史上重要な寺院跡であるとして、1971年(昭和46年)3月1日には国の史跡にも指定されています。
その際に八角塔の基壇跡が復元されるなどして周辺一帯が整備保存され、史跡公園となりました。
その後1997年(平成9年)に、史跡指定地域の北方で民間の宅地開発に伴って追加の発掘調査が実施され、寺域北辺を画する北回廊跡と掘立柱建物3棟、更に続けて実施された確認調査で塔の北側に金堂と思われる建物基壇が検出され、寺域のおおよそが推定できるようになり、これらの地域を含む一帯が1998年(平成10年)に史跡に追加指定されています。
現在は子供たちの遊び場、市民の憩いの場となっており、春には桜もきれいに咲きます。
また隣接する小さな「記念の森」には、緑豊かな木々が植えられ、夏場の避暑に最適なほか、公園の北側には樫原三ノ宮神社が鎮座しています。
公園北側
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